ラーオ・イサラ運動と亡命生活: 1941年-1957年
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日本軍の進駐前後においては、ラオ族の実質的な代表としての役割を負った。日本軍の影響下、1941年副王の地位に就き、ラオスとヴェトナムで、フランス植民地時代の役人を取り替えようと試みたが、ベトナムにおいては、地元のプロレタリアートからの抵抗があまりにも強く失敗した。また、1944年、カタノーン・スワンナキリー旅団司令官にタイを攻撃させたがうまくいかず、結局、沙汰止みとなっている。 1945年4月、仏印処理に伴いラオスは独立、8月終戦に伴い旧体制に戻そうとする国王シーサワーンウォンを諌め独立を維持しようとしたが説得できず、抗仏民族組織ラーオ・イサラを組織、10月臨時政府を樹立し大統領に就任した。しかし、フランスの再攻勢に抗しきれず、翌年タイに逃れ、亡命政権を指導した。
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