ラテラノ大聖堂の修復事業とは? わかりやすく解説

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ラテラノ大聖堂の修復事業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 16:12 UTC 版)

サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂」の記事における「ラテラノ大聖堂の修復事業」の解説

長らくアヴィニョンにあった教皇庁紆余曲折をへてようやくローマ戻ったが、ラテラノ大聖堂宮殿荒れ果てていたため、教皇とりあえテヴェレ川沿いのサンタ・マリア大聖堂(後のサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂)に住むことにした。後に教皇居住用にサン・ピエトロ大聖堂の隣に教皇宮殿つくられ、そちらに移った以後教皇現代に至るまでバチカン教皇宮殿暮らしている。 16世紀教皇シクストゥス5世荒れ果てていたラテラノ大聖堂宮殿修復してかつての威容取り戻そう考えた再建後、もともと一体化していたラテラノ大聖堂ラテラノ宮殿切り離された。ラテラノ宮殿は現在では教皇庁博物館として古代キリスト教関係展示品蒐集している。シクストゥス5世は、お気に入り建築家ドメニコ・フォンターナ修復事業総指揮とらせた1620年11月15日アジアから中東経てヨーロッパにたどりついた日本人イエズス会士ペトロ岐部は、このラテラノ大聖堂念願司祭叙階秘跡受けた。彼はその後迫害激化していた日本戻って殉教している。 17世紀になると教皇インノケンティウス10世フランチェスコ・ボッロミーニ聖堂内部装飾大々的に行わせた。18世紀クレメンス12世ファサードデザイン公募し、アレッサンドロ・ガリレイの案を採用した。現在見られる聖人たちが立ち並ぶ印象的なファサードはこの案にしたがって1735年完成している。しかし、このファサード設置によって教会正面残っていたバジリカ時代面影がすべて取り払われてしまうことになったラテラノ大聖堂前の広場にはエジプトから運ばれオベリスク屹立している。この「ラテラノ・オベリスク(英語版)」はもともとトトメス3世によってカルナック建てられたものだったが、ローマ時代に大競技場チルコ・マッシモ建てるために運ばれその後競技場がなくなると、現在地移された。 大聖堂隣接する八角系の洗礼堂は、コンスタンティヌス帝が洗礼受けたという伝承の残る位置つくられ永きわたってローマでただ一つ洗礼堂として尊重された。

※この「ラテラノ大聖堂の修復事業」の解説は、「サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂」の解説の一部です。
「ラテラノ大聖堂の修復事業」を含む「サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂」の記事については、「サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂」の概要を参照ください。

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