ヨハン・リーヴァ在籍期 (1996年 - 2000年)
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1996年、イギリスのエクストリーム・メタルバンド「カーカス」に参加していたことのあるマイケル・アモット(G)等によって結成される。 1st『BLACK EARTH』 彼はカーカス脱退後スウェーデンに戻り、しばらくハードロックバンド「スピリチュアル・ベガーズ」を結成し活動していたが、デスメタルのプロジェクトとして「アーチ・エネミー」を立ち上げ、1stアルバム『Black Earth(ブラック・アース)』を制作。ロング・アゲイン・レコードからリリースされた。このアルバムはマイケルが殆どの曲を作詞作曲しており、ベースもマイケルがプレイしている。アルバムクレジット上ではヨハンがベースを担当したという表記がなされている。だが実際は、アーチ・エネミーをよりバンドという形に見せる為の手段のひとつだったそうだ。このアルバムは、そのクオリティの高さや日本の所属レコード会社トイズファクトリーのプロモーション効果も手伝って、日本国内で高い評価を受けた。 1997年3月には、「カテドラル」の来日公演のスペシャルアクトとして初来日公演を行う。当初はこの公演後、その活動にピリオドを打つ予定だったというが、日本公演でファンに熱狂的に迎えられた彼らはバンドの続行を決意する。この当時のマイケルのメインバンドは「スピリチュアル・ベガーズ」だった。 2nd『STIGMATA』 1998年、2ndアルバム『Stigmata(スティグマータ)』を発表。前作で打ち出した暴虐性をそのままに、沈み込むようなヘヴィなグルーヴが支配する作風となる。このアルバムをレコーディングする際にダニエル・アーランドソン(Ds)が一時バンドから離脱しており、彼の代役としてピーター・ウィルドアー(後にダーケインを結成する)が参加した。また本作より、「センチュリー・メディア・レコード」の所属となった。 作品はミドル・テンポの曲を中心に構成されていたが、日本のレコード会社とのライセンス契約の際に、レコード会社側から「これでは納得できない、もう2曲レコーディングしなきゃダメだ。速い曲を」と言われ、急遽、2曲追加することになった。またこのアルバムについてマイケル自身は、ダニエルが復帰した後に行われたアルバム完成後の来日公演でライヴパフォーマンスが酷かったり、そのツアー中にマイケル本人が当時のベーシストであったマーティン・ベンソンとバーで喧嘩した苦い経験もあって、思い入れは浅いと語っている。結局、この後マーティンはバンドを離れている。 3rd『BURNING BRIDGES』 1999年、マーティンの後任にマーシフル・フェイトなどで活動していたシャーリー・ダンジェロ(B)が加入。そして3rdアルバム『BURNING BRIDGES(バーニング・ブリッジズ)』を発表。デビュー時から築き上げてきた暴虐性と叙情性の融合はこのアルバムで完成することとなる。 この年に行われたチリ公演ではシャーリーではなくディック・ロウグレン(後にメシュガーに加入)がベースを担当した。同年10月、ウィッチリーを前座に迎えた3度目の来日公演後にシャーリーが脱退。翌2000年1月のネヴァーモアのサポートアクトとして廻った全米ツアーではThe Quillのロジャー・ニルソンをサポートベーシストに迎えて乗り切った。結局、シャーリーは同年中に復帰した。 秋には、マイケルがカーネイジ時代からの盟友であったヴォーカルのヨハン・リーヴァを、彼のライヴパフォーマンスにおける技量不足を理由に解雇する。マイケルにとってヨハンは盟友という事もあり、彼の解雇については苦渋の決断であったそうだが、現在でも彼らは友好的な関係を保っている。
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