ユフレイズ・ケジラハビ
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ユフレイズ・ケジラハビ(スワヒリ語: Euphrase Kezilahabi、1944年4月13日 - 2020年1月9日)は、タンザニアの作家、詩人、学者[1]。
生涯
1944年4月13日に現在のタンザニア、当時はイギリスの植民地タンガニーカ準州のヴィクトリア湖のウケレウェ島ナマゴンド村でケレウェ人の家系に生まれた。父親はナマゴンド村の長であった[1]。
その後ナマゴンド村のナカサイェンゲ小学校に入学し、カグングリ村のドイツ系ミッションスクールに進学、1957年にアフリカ大陸側のムワンザにある全寮制の神学校、ニェゲズィ神学校に進学、1966年に更に神学を学ぶためタボラのキパラパラに進学したがその年の内に中退し、神父になることを断念した。1967年にダルエスサラーム大学に入学、1970年に学士号を取得しモロゴロ州やイリンガ州の中学校で教鞭をとった[1]。
1971年にダルエスサラーム大学で助手として働き始め、第一作目の小説『ロサ・ミスティカ』を刊行し、本作を英語で書かれた小説のコンテストに応募した。その動機をケジラハビは「挑発するため」と答えた。賞は得られなかったがコンテストの主催者は価値を認め出版を決めた。しかし、数か月後に政府によりキリスト教的に不適切とみなされ、発禁処分を受けた。1974年に講師に昇進し、小説『うぬぼれ屋』、詩集『激痛』を発表した。1976年、シャーバン・ロバートの研究で修士号を取得した[1]。
1977年にフランス留学から帰国した際にフロリダという女性とすでに結婚していたという。1978年に准教授に昇進した。同年3月のダルエスサラーム大学の学生たちの政府への抗議デモが行われたが、政府により参加者は退学処分にされ、学生集会は禁止された。この事に憤ったケジラハビは政府を批判した戯曲『マルクスの半ズボン』を執筆したが、政府からの圧力により出版には至らなかった[1]。
1982年にアメリカのウィスコンシン大学で二度目の修士号を取得し、1985年に博士号を取得した。タンザニア帰国後、1987年から1991年にダルエスサラーム大学スワヒリ語学科の学科長を務めた。1995年にボツワナに移住し、ボツワナ大学のアフリカ言語・文学科で教え始めた。2018年に闘病のためボツワナ大学を辞し、タンザニアに帰国し、2020年1月9日にタンザニアの病院に76歳で死亡した[1][2]。
著作
小説
- 『ロサ・ミスティカ』‐1971年[3]
- 『うぬぼれ屋 』‐1974年[3]
- 『世界は混沌の広場』‐1975年[3]
- 『死を待つ者たち』‐1976年[3]
- 『保険大臣マヤイ』‐1978年[3]
- 『蛇の抜け殻』‐1979年[3]
- 『弱者の所有物を公衆の面前で嘔吐する』‐1985年[3]
- 『ナゴナ』‐1990年[3]
- 『迷宮』‐1991年[3]
- 『マグワンダ・クビリャと複数政党制』‐1993年[3]
- 『バレンズィ』‐2009年[3]
詩集
戯曲
- 『マルクスの半ズボン』‐1978年[3]
脚注
- ^ a b c d e f 小野田 2022, p. 66‐71.
- ^ 小野田 2020, p. 58‐62.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 小野田 2022, p. 75‐81.
参考文献
- 小野田風子『不透明の作家ケジラハビ』大阪大学出版会、2022年8月31日、66‐71、75‐81頁。ISBN 9784872597585。
- 小野田風子 (2020年8月19日). “E・ケジラハビの訃報を受けて”. スワヒリ&アフリカ研究 第31号 編集後記/奥付. 大阪大学. 2025年9月6日閲覧。
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