ユフレイズ・ケジラハビとは? わかりやすく解説

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ユフレイズ・ケジラハビ

(ユーフレイズ・ケジラハビ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/06 09:20 UTC 版)

ユフレイズ・ケジラハビスワヒリ語: Euphrase Kezilahabi1944年4月13日 - 2020年1月9日)は、タンザニア作家詩人学者[1]

生涯

1944年4月13日に現在のタンザニア、当時はイギリス植民地タンガニーカ準州ヴィクトリア湖ウケレウェ島ナマゴンド村スワヒリ語版ケレウェ人英語版の家系に生まれた。父親はナマゴンド村の長であった[1]

その後ナマゴンド村のナカサイェンゲ小学校に入学し、カグングリ村スワヒリ語版ドイツミッションスクールに進学、1957年アフリカ大陸側のムワンザにある全寮制神学校ニェゲズィ神学校スワヒリ語版に進学、1966年に更に神学を学ぶためタボラキパラパラスワヒリ語版に進学したがその年の内に中退し、神父になることを断念した。1967年ダルエスサラーム大学に入学、1970年学士号を取得しモロゴロ州イリンガ州中学校で教鞭をとった[1]

1971年にダルエスサラーム大学で助手として働き始め、第一作目の小説ロサ・ミスティカスワヒリ語版』を刊行し、本作を英語で書かれた小説のコンテストに応募した。その動機をケジラハビは「挑発するため」と答えた。賞は得られなかったがコンテストの主催者は価値を認め出版を決めた。しかし、数か月後に政府によりキリスト教的に不適切とみなされ、発禁処分を受けた。1974年講師に昇進し、小説『うぬぼれ屋』、詩集『激痛』を発表した。1976年シャーバン・ロバート英語版研究修士号を取得した[1]

1977年フランス留学から帰国した際にフロリダという女性とすでに結婚していたという。1978年准教授に昇進した。同年3月のダルエスサラーム大学の学生たちの政府への抗議デモが行われたが、政府により参加者は退学処分にされ、学生集会は禁止された。この事に憤ったケジラハビは政府を批判した戯曲マルクスの半ズボンスワヒリ語版』を執筆したが、政府からの圧力により出版には至らなかった[1]

1982年アメリカウィスコンシン大学で二度目の修士号を取得し、1985年博士号を取得した。タンザニア帰国後、1987年から1991年にダルエスサラーム大学スワヒリ語学科の学科長を務めた。1995年ボツワナに移住し、ボツワナ大学のアフリカ言語・文学科で教え始めた。2018年に闘病のためボツワナ大学を辞し、タンザニアに帰国し、2020年1月9日にタンザニアの病院に76歳で死亡した[1][2]

著作

小説

詩集

戯曲

脚注

  1. ^ a b c d e f 小野田 2022, p. 66‐71.
  2. ^ 小野田 2020, p. 58‐62.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 小野田 2022, p. 75‐81.

参考文献




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