ユーストンまでの延長、1901年 - 1907年
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「シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道」の記事における「ユーストンまでの延長、1901年 - 1907年」の解説
鉄道の技術革新や、大きな旅客需要にも関わらず、シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道はあまり利益を出せず、利益を拡大することを目指して矢継ぎ早に繰り返された延長工事により、財務に問題を抱えていた。配当は少なくしかも減少しつつあり(1898年2.125パーセント、1899年1.875パーセント、1900年1.25パーセント)、キング・ウィリアム・ストリート駅の廃止という無駄遣いをしたとして訴えられていた。この評判の低下を打開し、資金を調達しやすくするために、次の路線延長の法案は1900年11月に、名目上は別の会社のイズリントン・アンド・ユーストン鉄道として提出された。しかしこの会社の会長はシティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道と同じであった。提案された鉄道は、その時点では未完成であったシティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道のエンジェル駅から伸ばし、幹線鉄道の駅であるキングス・クロス駅、セント・パンクラス駅、ユーストン駅へ向かうことになっていた。1900年に開業したセントラル・ロンドン鉄道の成功に刺激を受けて、他の鉄道法案も多数提出されていたのと同じ時期となり、こうした法案とともに議会の1901年の合同委員会で審議されることになった。この法案は承認されたが、委員会での審議に時間がかかったため1902年の会期に再提出しなければならないことになった。 1902年の会期では法案は再審議されたが、ロンドンの他の地下鉄であるメトロポリタン鉄道が、提案されている路線は自社のキングス・クロス駅とムーアゲート駅を結ぶ区間の営業に対して悪影響を与えるとして反対した。またイズリントン・アンド・ユーストン鉄道は、もしこの鉄道の建設が承認されれば、その権利をシティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道が引き継ぐことを認めるように請願していた。委員会は、前年の決定を覆して、法案を却下した。1902年11月に、シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道は自身の名前でユーストン延長路線の許可と、休眠状態であったシティ・アンド・ブリクストン鉄道の権利を引き継ぐ承認を求める法案を提出した。ユーストンでは、計画中で未完成であったがチャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道と接続することになっていた。シティ・アンド・ブリクストン鉄道の権利を引き継ぐ意図は、バンク駅およびメトロポリタン・ディストリクト鉄道のモニュメント駅との間に歩行者用地下道があるキング・ウィリアム・ストリート駅を新たな駅として同社に使わせるためであった。テムズ川の下に3本目のトンネルを建設し、ボロ駅の北側で廃止されていた当初のトンネルと結んで、そこからかつて承認されたシティ・アンド・ブリクストン鉄道の経路を建設し、ロンドン・ブリッジ駅とオーヴァル駅で既存のシティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道の駅と接続する。今回は法案は承認され、1903年8月11日に1903年シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道法として国王裁可を得た。シティ・アンド・ブリクストン鉄道は実際に建設されることはなかったが、ユーストン延長線はすぐに建設されて、1907年5月12日に開通した。駅は以下の通りである。 キングス・クロス・セント・パンクラス駅 ユーストン駅
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