ユースフ1世とマリーン朝の諸王子
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「ユースフ1世 (ナスル朝)」の記事における「ユースフ1世とマリーン朝の諸王子」の解説
アブル=ハサン・アリーは1351年に死去するまでマリーン朝の君主の地位を取り戻そうと試みたものの失敗に終わった。アブー・イナーンの兄弟で競合者であったアブル=ファドルとアブー・サーリム(英語版)はナスル朝へ逃亡した。ユースフ1世は両者の引き渡しを求めるマリーン朝のスルターンからの圧力を撥ね付けた。他の多くのナスル朝のスルターンたちと同様に、ユースフ1世は宮廷にマリーン朝の君主を主張する者たちを抱えておくことでマリーン朝と対立した際に影響力を持つことができると考えていた。ユースフ1世の激励を受けたアブル=ファドルはペドロ1世に支援を求めるためにカスティーリャへ向かった。北アフリカで再び内戦を引き起こそうとしたペドロ1世は、アブー・イナーンを攻撃するためにアブル=ファドルをスース地方(英語版)に上陸させる船を提供した。マリーン朝のスルターンはユースフ1世の態度に激しく憤ったが、アブル=ファドルがカスティーリャの支援を受けていることを知り、行動を起こすことをためらった。その後アブル=ファドルはアブー・イナーンに捕らえられ、1354年か1355年に処刑された。最終的にアブー・サーリムがスルターンになったものの、即位したのはユースフ1世の死後からかなり経った1359年のことである。
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