ユーストン広場連合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 02:29 UTC 版)
「ミッドランド鉄道」の記事における「ユーストン広場連合」の解説
ロンドン・アンド・バーミンガム鉄道とその後身であるロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道は2つの方面からの圧力を受けていた。まず、グレート・ウェスタン鉄道はバーミンガム進出の試みをミッドランド鉄道によって挫折させられていたが、なおマンチェスター進出を伺っていた。同時にロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道は、マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道によってマンチェスター進出を図るグレート・ノーザン鉄道の脅威にさらされてもいた。 ロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道は、有能だがまったく恥知らずで無法なマーク・ヒューイッシュ(英語版)が率いていた。まず彼は、ミッドランド鉄道の悪い財務状態を見て合併を提案したが、エリスはよりよい条件を求めて拒絶した。そこで彼はマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道とミッドランド鉄道とでグレート・ノーザン鉄道に対する連合を組むことにし、これは後に「ユーストン広場連合」(Euston Square Confederacy) として知られるようになった。 この連合では、旅客輸送を分担し、ミッドランド鉄道がグレート・ノーザン鉄道によって奪われた旅客を補うということで合意に達した。さらなる問題が1851年にロンドン万国博覧会と共に発生した。グレート・ノーザン鉄道がまさに開業して、ミッドランド鉄道のほとんどの輸送を奪っていったのである。ミッドランド鉄道は運賃値下げで対抗し、値下げ競争が繰り広げられて運賃はほとんどタダになるところまで下がってしまった。当時鉄道に責任を負う大臣であったグラッドストンは、ヨークシャーおよびリンカンシャーからの輸送に関して2つの会社で分担する枠組みを強要した。その後、ミッドランド鉄道が強大化し、さらにヒューイッシュとマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道の関係が悪化したため、この連合はほぼ終わりとなった。
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