メッソナ政権崩壊
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メッソナ党政権は長くは続かなかった。国民はメッソナ党が行った改革による弊害に倦み、街にはメッソナ党の政策を風刺するパンフレットが溢れるようになった。メッソナ党は自らが制定した出版自由法のため、これらの風刺文を取り締まることもできず追い詰められていった。枢密院はリクスダーグで定めた緊縮措置に対するすべての抗議行動は罰金または禁固刑に処すとした命令を発布して対抗したが、アドルフ・フレドリクはこの命令への署名を拒否した。アドルフ・フレドリクは王太子グスタフの提案を受け、枢密院議員に対して危機を緩和するため臨時リクスダーグを招集することを求めた。メッソナ党が牛耳る枢密院がこれを拒否すると、アドルフ・フレドリクは退位を宣言した。これにより1768年12月15日から21日までスウェーデンは無政府状態に陥った(いわゆる12月危機)。その後、枢密院が譲歩すると、リクスダーグは1769年4月19日に招集されることになった。 ハッタナ党はリクスダーグ開会前夜にフランス大使館で総会を開催した。フランス大使モデヌ伯爵は、ハッタナ党に対して「憲法を改正し、君主制を強化した場合に600万リーヴルを提供する」と約束した。一方、ロシア大使イワン・オステルマンはメッソナ党の顧問兼会計を務めており、メッソナ党員を大々的に買収した。メッソナ党はこれを受けて、ロシアを排除することに投票するのであればロシアからの報復を受けるであろう、と公然と脅迫し、さらにストックホルムの代わりにロシア艦隊のアクセスが容易なノーショーピングでリクスダーグを開くことで劣勢を乗り切ろうとした。しかし、4月19日にノーショーピングでリクスダーグが招集されると、メッソナ党は4身分すべてで少数派になっていた。リクスダーグの議長選挙ではフェルセンとルドベックが再び激突し、今度はロシアの買収にもかかわらずフェルセンがルドベックに234票差で勝利した。 メッソナ党もわずかながら抵抗し、ロシア、プロイセンおよびデンマーク大使からハッタナ党によるいかなる「報復」にも抗議するという共同声明を取り付けたものの、これも政権崩壊を早めるだけに終わった。メッソナ党の枢密院議員らは弾劾を免れるために一斉に辞任し、代わってハッタナ党員がその地位を占めた。6月1日、リクスダーグは首都ストックホルムに場所を移して開かれた。すると、フランス大使と王太子グスタフは新たな枢密院議員らを前に、リクスダーグ開会前に行った憲法改正の約束を果たすよう求めたのである。しかし、議員には約束を果たすつもりはなく、結局リクスダーグは1770年1月30日に何も決められないまま混沌のうちに閉会した。
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