ムステリアン論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 16:05 UTC 版)
詳細は「ムステリアン論争」を参照 ムスティエ石器の変化についてボルドとルイス・ビンフォード (en) の間で論争が行なわれた。ボルドは各個別集団がそれぞれの石器を使用していたと判断、集団の文化伝統の違いがムスティエ石器の違いに繋がると考えていたが、それに対してビンフォードは狩猟、木工などの各遺跡で行なわれた活動の違いに繋がると考えていた。 ボルドの主張によればフランスのドルドーニュ県のペシュ・ド・ラゼ(Pech-de-l'Azé)遺跡では典型的ムスティエ、鋸歯縁石器ムスティエ、典型的ムスティエという順番に一連の層位が発見されており、近隣のコンブ・グルナル(Combe-Grenal)遺跡で発見された典型的ムスティエ文化と平行していたことが明らかにされた。そこで、それぞれのムスティエ文化が進化の過程で現れたものではなく、同時進行で営まれていたとしているがこれは文化を担った人々が定住して活動していたと結論付けた。そして、マイラ・シャクリー (en) はそれぞれの石器製作者らは同じ仕事を同じように行なったが、作成した石器が異なり、ネアンデルタール人の各集団はそれぞれ独自の規格を持っていたと推測している。 それに対して、ビンフォードはムスティエ石器の違いは地域という体系の中の要素と考え、中期旧石器の人々が移動していたと判断、拠点的野営地と作業野営地が存在したと主張した。ビンフォードによれば拠点的野営地では野営地の維持のために典型的ムスティエ文化、アシュール伝統ムスティエ文化A型、B型が使用され、作業的野営地ではシャラント型ムスティエ文化キナ型、フェラシ型、鋸歯縁石器ムスティエ文化が狩猟、原材料の獲得に使用されたとしており、機能よりも時代に関係があると主張した。 この論争は1960年代から80年代まで続けられたが、結局、結論がでることはなかった。しかし、ビンフォードの主張は遺跡の機能差を考慮するという斬新な観点であり、それまで伝統差や時代差のみを考慮していた学界に大きな反響を呼ぶ事となった。 その後、新たにハロルド・ディブル (en) によって石器の再加工、利用石材の差などを考慮した機能的解釈も主張されている。
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