ムスティエ文化における埋葬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 16:05 UTC 版)
「ムスティエ文化」の記事における「ムスティエ文化における埋葬」の解説
1908年、オットー・ハウザー (en) によってラ・フェラシーの発掘調査が行なわれ、ネアンデルタール人の青年の骨格が発見された。しかし、この調査はアンリ・ヴァロワ (en) によれば『科学的見地から言えば嘆かわしい状況であった』ため、埋葬されたものか否かは明らかにすることができなかった。 しかし、1922年、ルイ・カピタン(fr)、ダニー・ペイロニー(fr)らはラ・フェラシーでムスティエ文化期の墓を発見、ムスティエ文化の人々が死者の埋葬を行なっていたことが明らかになり、さらに複雑な遺構も発見された。さらにペロニーが調査を行なった結果、ムスティエ文化の層において2つの埋葬された人骨を発見、1つは三枚の板状の石に覆われており、もう片方には少年が石器とともに埋葬されていたため、ムスティエ文化の人々が死者の埋葬を行っていた事が明らかになった。 1913年、ラ・シャペル人 (en) を発見したバルドン(L. Bardon)、ブゾニー(Jean Bouyssonie)によってラ・フェラシー、ル・ムスティエ、スピー (en) における発見について以下のような特徴があることを発表した。 身をかがめた姿勢で埋葬されていたこと。 遺体を保護するための細工がされていること。 食物供犠が行われていること。 細工の施されたフリントが供えられていること。 死者の為に墓が作られていること。 墓のそばで魔術的なことが行われていること。 これらについて当時の保守的な人々は批判を繰り返したが、これ以外の部分については議論がなされているものがあるとはいえども、中期旧石器時代に墓が存在したことの証明となった。 また、クリミア半島にあるキィク・コバ(Kiik-Koba)、スタロセリエ(Staroselje)においても墓が設けられていた。キィク・コバ洞穴は上部がキナ型、下部が鋸歯縁石器と複合化しているが、方形の墓に成人ネアンデルタール人が葬られていた。ここでは右脚と両足の骨などが発見されたが、ボンチ・オスマロフスキーによれば一般的なネアンデルタール人よりも原始的な骨格であるとしている。一方でキナ型亜型のスクレイパーが発見されたスタロセリエでは幼い子供の骨が発見されている。 一方でイラクのシャニダール遺跡は『花の供えられた埋葬』で有名であるが、ここで発見されたムスティエ文化期の石器はウズベキスタンのテシク・タシュ遺跡 (en) と文化的には同一なものである。シャニダールでは他にも洞穴の崩落で押しつぶされた人々が発見されているが、シャニダール4号の人物は岩を掘りぬいた墓の中に南枕で埋葬されていた。調査の結果、遺体は花のベッドの上に安置されて埋葬されていることが明らかになり、キク科、ユリ科、マオウ科、アオイ科の花粉が発見されている。
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