ムスチスラフ2世のキエフへの不成功な遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 15:51 UTC 版)
「キプチャク」の記事における「ムスチスラフ2世のキエフへの不成功な遠征」の解説
1172年、グレープにキエフ大公の座を奪われたムスチスラフ2世は再びキエフを奪還すべく、イジャスラフの子ヤロスラフ,ムスチスラフの子ヴラヂミルらと共にキエフに向かった。ムスチスラフ2世はキエフに入って後、ヴイシゴロドへ向かい、ダヴィドを攻撃した。キエフ大公のグレープはダヴィドに援軍として、コンチャーク率いるポロヴェッツ人,ベレンデイ人,バスチーの兵を送った。これを聞いたムスチスラフ2世の軍は撤退を余儀なくされ、その年の末、ムスチスラフ2世はヴラヂミルの町で死去した。
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