ムスハフ本文におけるナスフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 03:35 UTC 版)
「ナスフ」の記事における「ムスハフ本文におけるナスフ」の解説
神の啓示の中に矛盾している句があった場合、古い時期のものが新しい時期の啓示によって取り消されたのだと解釈する方法を、イスラーム教徒は、ナスフとしている。 「我々(アッラー)は、ある一つの節を取り消したり、または忘れさせたりすることがある。その理由としては、それよりも良いものか同等の啓示を、信者に与えるためである。(2章 106節)」という啓示が、ある。初期のイスラームでは、この言葉が、ナスフに関係したものとされていた。上記の「取り消し」の句は、メディナ時代の啓示である。我々(神のこと)の説く教えは、矛盾があるかもしれない。しかしそれは、よりよい教えを啓示するために、これ以前に不変の真理として下した啓示を、取り消したり、聞かなかったことにすることがある、という意味合いがあるようだ。 ウスマーン版ムスハフの第5章では、キリスト教に対する賛同と敵対視の啓示が、同じ神の啓示として、並立して書かれている。神は、5章56節では、キリスト教徒は分別がなく、邪悪の徒が多いとしている。しかし、そのすぐ後の、5章82(85)節では、キリスト教徒は、愛情深く、信仰心が篤い、と神はしている。キリスト教徒がクルアーンを聞けば、涙を流して「私たちは信じます」と言うだろう、という予言も、神はしている。そのため、これらの啓示を理解するためには、神の言葉のどちらか一方を削除する必要がある。この章を矛盾を感じずにイスラーム教徒が読むためにも、ナスフが必要不可欠なツールであるとされている。 この出来事からわかることは、「全知・全能の神ともあろう方が、数年先の未来のことが予測できなかった」、ということである。「神様と自称している方がそのようなミスをするだろうか、(いや、そんな神様はニセモノにちがいない)」、という批判が、ムハンマドの当時にはあったとされる。 キリスト教の修道士に対する評価については、5章82(85)節において、良い評価がくだされている。しかし、9章34節では、神の道を阻害する偽善者であるという評価が下されている。 似たような経緯をたどって、ユダヤ教の場合においても、歴史的に重大ともいえる矛盾した啓示が、並立して表示されている現状にある。
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