ミュンヘン=オーバーバイエルン
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「パウル・ギースラー」の記事における「ミュンヘン=オーバーバイエルン」の解説
1942年6月23日からは重度の脳卒中になり、ほとんど活動できなくなったミュンヘン=オーバーバイエルン大管区指導者アドルフ・ヴァグナーの政務代行を務めた。またヴァグナーが務めていたバイエルン州内相及び教育文化相の職務も代行した。同時にミュンヘン=オーバーバイエルン大管区の大管区労働配置管理官、大管区住宅委員も兼務。バイエルン州首相であるルートヴィヒ・ジーヴェルトが死去すると、11月2日に州首相及び財務相、経済相の座を引き継いだ。また16日には南ヴェストファーレンとミュンヘン=オーバーバイエルンの国防管理官に任命された。 1943年1月13日にミュンヘン大学創設470周年記念演説を学生及び教授陣を前にして行ったが、それが原因で暴動が起きた。6月18日に南ヴェストファーレンの大管区指導者と国防管理官の地位をアルベルト・ホフマン(ドイツ語版)と交代した。 1944年4月12日にアドルフ・ヴァグナーが死去すると、正式にミュンヘン=オーバーバイエルン大管区指導者に就任。またミュンヘン=オーバーバイエルン、シュヴァーベン、オーバードナウ、ザルツブルクの大管区を管轄する南部国防管理官に任命された。9月25日からは国民突撃隊ミュンヘン=オーバーバイエルン指導者に任命された。1945年3月にアメリカ軍が近づくとダッハウ強制収容所にいる収容者の殺害を計画し、拒否した「南」親衛隊及び警察高級指導者のフリードリヒ・カール・フォン・エーベルシュタインを党官房長マルティン・ボルマンの命令で「敗北主義者」として全官位を剥奪した。4月27日に起こったバイエルン自由行動(ドイツ語版)の反乱を親衛隊の力を借りて鎮圧。この時に反乱に加わった市民がヴェアヴォルフによって殺害される「ペンツベルクの殺戮の夜(ドイツ語版)」事件が起こった。同日ミュンヘンから逃亡。ヒトラーの遺書においては内務大臣に内定された。
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