ミナルディ時代
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1995年は、当初パシフィックからの参戦が決定していたが、開幕直前になってティレルへの移籍を画策して交渉を開始。ミカ・サロとのシート争いとなったが、最終的には敗れ、また鞍替えでパシフィックチームのオーナーであるキース・ウィギンスを激怒させたことから、パシフィックのシートをも失う形となった。 この結果、前半戦はF1浪人となったが、資金難に苦しむミナルディに持参金を持ち込み、第10戦ハンガリーGPからピエルルイジ・マルティニに代わって参戦。最終戦オーストラリアGPでは、完走8台というサバイバルレースを生き残り6位入賞、これが自身初・そして唯一の入賞となった。またミナルディにとっては、この年唯一の入賞だった。 1996年も引き続きミナルディに在籍、全戦に出走し唯一のフル参戦となる。しかし入賞は記録できず、最高位は第5戦サンマリノGPにおける9位となった。そしてこの年をもって、ラミーはF1を去る結果となった。
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ミナルディ時代
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「ジャコモ・カリーリ」の記事における「ミナルディ時代」の解説
1980年、ジャンカルロ・ミナルディからの要請により、ミナルディチームの最初のF2の設計をてがけ、以後、株主としても同チームに関わるようになる。 1981年にはミサノで行われたレースにおいて、ミケーレ・アルボレートが同チームにとってのF2初勝利を遂げた。 1985年にミナルディがF1にステップアップすると、カリーリは同チームにとって初のF1シャシーであるM185を設計するとともにテクニカルディレクターの職につき、この間、参戦当初はモトーリ・モデルニのV6ターボエンジンをチューンする作業も行った。 1988年をもって引退しアルド・コスタにその座を譲るまで、ミナルディチームの技術部門を統括し続け、引退の数ヵ月後、1989年に保有していたミナルディ株も売却し、レースの世界から一時去った。 その後、彼は技術部長としてマセラッティに加わり1997年に、彼は新しい部門の代表としてフェラーリに戻った。 彼は2002年にフェラーリを去って、ATRグループのためにコンサルタントを始めた。 2004年、彼はExpotecnicaの社長である。
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