ミシガン準州と米英戦争
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「ウィリアム・ハル」の記事における「ミシガン準州と米英戦争」の解説
1805年3月22日、トーマス・ジェファーソン大統領から、設立されたばかりのミシガン準州知事とインディアン代理人に指名された。この準州はデトロイト周辺とミチリマキナック砦の2つの飛び地以外はほとんど全部インディアンが支配しており、徐々にインディアンの土地を購入して、アメリカ人開拓者のために開放する任務を引き受けた。1807年、オタワ族、チッペワ族、ワイアンドット族、ポタワトミ族インディアンとデトロイト条約の交渉を行い、現在のミシガン州南東部の大半をアメリカ合衆国に割譲させた。このようにアメリカ人開拓者の土地を拡張する動きに対して、特にショーニー族指導者のテカムセやその弟でショーニー族預言者のテンスクワタワが反対するようになり、部族員にアメリカ的生活様式やそれ以上土地を投げ売りすることに抵抗するよう説き勧めていた。 1812年2月までに、アメリカ合衆国は議会で、カナダへの侵略を含めイギリスとの戦争を公然と検討し、作戦を立てるようになっていた。これに反応したイギリスは、アメリカがカナダを攻撃して来た場合に備えて、ミシガンやカナダの地域を守るために、インディアン部族をその防衛部隊に加える動きを始めた。ハルがワシントンD.C.に居るときに、陸軍長官ウィリアム・ユースティスが、ジェームズ・マディソン大統領はハルを新しく北西方面軍を指揮する准将に指名したいと考えていると知らせてきた。この時ハルは60歳近くになっており、郡の新しい任官には興味が無いと伝え、その代わりにキングスベリー大佐が指揮官に選択された。キングスベリーは任務に就く前に病気になり、再度ハルに打診があり、この時はハルも受け入れた。その時受けた命令では、まずオハイオ州に向かい、その州知事が1,200名の民兵隊を立ち上げるようマディソンから指示されており、これにインディアナ州ビンセンズからの第4歩兵連隊が加わることで、北西方面軍の核を形成するというものだった。オハイオからはデトロイトまで軍を移動させ、さらにミシガン準州知事の任務も継続することとされていた。この戦争では、ハルは正しい判断能力のある者として知られていた。
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