マムルークの登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 06:05 UTC 版)
上で触れたように、イスラムの規定は新たな奴隷の獲得を事実上戦争捕虜に限定していたが、このため預言者ムハンマド死後のアラブの大征服の時代を経てイスラム共同体(ウンマ)の拡大が止まったとき、わずかな戦争捕虜の解放に対して奴隷の供給が不足することは明らかである。こうして、イスラム社会はイスラム帝国外部からの奴隷の獲得に依存するようになる。もともとイスラム以前からアビシニア出身の黒人が奴隷としてアラブ社会には多く流入していたが、アッバース朝の頃になると、ザンジュと呼ばれた東アフリカ出身者、サカーリバと呼ばれた東ヨーロッパのスラヴ人などが購入された。 さらに、ムスリム(イスラム教徒)勢力が中央アジアに安定支配を築いたアッバース朝の時代になると、アトラークと呼ばれるテュルク系の遊牧民たちが奴隷としてイスラム世界にもたらせるようになる。アッバース朝は彼らテュルク系の奴隷を数多く購入して、それまでの主力であったアラブ人やペルシア人マワーリーの軍事力を代替するようになり始めた。通説によれば、このようなテュルク系マムルークを初めて大々的に編成したのは9世紀初頭のアッバース朝のカリフ、ムウタスィムの時代で、ムウタスィムは即位の前から数千人のマムルークを私兵として所有していたといわれる。当時はグラーム(小姓)とも呼ばれたマムルークの本格的な導入によってイスラム社会の軍隊の構成は劇的に変化し、アラブ人やマワーリーの軍団は姿を消すこととなった。やがて、彼らの呼称として「男性奴隷」を意味するマムルークの語が定着し、マムルークといえばテュルク系の遊牧民出身者を中心とする騎兵の奴隷軍事力を指すようになり始める。
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