マムルーク制の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 06:05 UTC 版)
このような混沌とした状況の中で、1798年、マムルークの圧制を打破するとの名目によりナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍がエジプトに上陸する(エジプト遠征)。マムルークは近代的なフランス軍の前にたちまち破られ、フランス軍はカイロを占領した。マムルークの有力者ムラード・ベイは上エジプト(エジプト南部)に逃れてゲリラ戦を続けたが、1801年にフランスの追討軍により打倒された。しかし、同年にフランス軍はオスマン帝国とイギリスの連合軍によって打ち破られ、撤退する。こうしてエジプトは新しくやってきたオスマン帝国の駐留軍と混乱を生き延びたマムルークのベイたち、そして彼らに肩入れする帝国の中央政府やイギリスなど外国勢力の思惑によって混沌とした情勢となった。 こうした状況の中で頭角をあらわしたアルバニア人の傭兵隊長ムハンマド・アリーは、1805年にカイロの民衆の支持を受けてマムルークのベイを追放し、エジプト州総督に就任する。ムハンマド・アリーは権力を掌握するとエジプトの近代化に乗り出すが、そのためには旧支配勢力であるマムルークによる旧態依然とした支配体制と軍事力の払拭が必要であった。ムハンマド・アリーは1811年にマムルークの討滅を決意し、24人のベイに率いられた500人のマムルークをカイロの城砦で行われる式典に招いてその帰路に待ち伏せさせたアルバニア人部隊によって皆殺しにさせた。ベイを失ったマムルークの支配体制はこれによって崩壊し、二度と復活することはなかった。
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