マグサイサイ政権(1953年-1957年)
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1953年の選挙(英語版)でマグサイサイはアメリカ当局や基金から辛うじて秘密の援助を受けて現職のエルピディオ・キリノを超えて大統領に選ばれた。フィリピンの大統領では初めてバロン・タガログを着て宣誓した。 大統領としてアメリカ合衆国の親友にして支援者であり冷戦期の反共代弁人であった。東南アジアや南アジア、オセアニアのマルクス・レーニン主義運動を破ることを目的にした1954年のマニラ条約としても知られる東南アジア条約機構の創設を導いた。任期中に文字通りには「人民の家」となるマラカニアン宮殿を作り、一般に門を開放した。 誠実な一例がフィリピン空軍(PAF)に属する新しい軍用機に搭乗して示威飛行をした後に見られる。マグサイサイ大統領は飛行費用に架かる1時間当たりの運用費用がこの種の軍用機にどれくらいかかるかを聞き、PAFに個人的な確認事項を書いた。 1957年3月16日にマグサイサイは3か所の教育機関で演説するセブに向けてマニラを発った。同じ日の夜午前1時頃にマニラに戻る大統領機「ピナツボ山」(C-47)に搭乗した。3月17日早朝に飛行機は行方不明になったと報告された。その日の午後遅くに新聞は飛行機がセブのマヌンガル山に衝突し26人中25人の乗客と乗務員が死亡したと伝えた。新聞記者のネストル・マタ(英語版)だけが生き残った。カルロス・ガルシア副大統領はこの時オーストラリアを公式訪問していて、マグサイサイの任期の最後の8か月を務めるために大統領職を引き受けた。 推定200万人が1957年3月22日のマグサイサイの葬儀に参列した。
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