ポスター作家時代
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1934年の函館大火で勤務先の松竹座が消失し、避難民として札幌へと移り其水堂金井印刷所に転職、NHK札幌中央放送局が発注したラジオ体操ポスター「JOIKラヂオ体操の会」を原画から製版まで手掛けたことをきっかけに印刷美術に進出しポスター制作の根幹となる描き版による印刷技術を学ぶ。また印刷所の同僚から紹介された能勢眞美の指導で立体的な表現を学ぶ。1935年には妻の妊娠出産のため再度函館に戻り辻印刷所に転職したが、松竹映画のポスターが地域の印刷所を介さず本社で制作し全国の映画館へ送付する形となったことから業務が減少し長男の誕生から間もない1936年5月に解雇。 同年「クリ図案社」を設立し印刷業務の減少から商店装飾や大工仕事など雑多な業務を行い生計を立て、鉄道省札幌鉄道局の冬の北海道観光ポスターにて一等入選し翌年にも連続で一等入選したことから札幌鉄道局の嘱託画家として迎え入れられ観光ポスターを主に描くこととなり、またチラシや新聞雑誌広告も手掛けた。しかし1939年に戦時体制による輸送統制で観光需要の喚起が行われなくなり1940年に鉄道局の嘱託を解かれ、制作の場を求め図案研究を主とした美術団体「筆洗社」を設立。1941年には松竹北海道支社に入社し再度映画ポスターを担当するも翌年に映画配給社へ統合され新聞広告を手掛けるのみとなった。1942年に召集され丙種合格だったため前線へ向かわず旭川第7師団で教育訓練の後除隊となり札幌都市防衛隊に配属され終戦を迎える。
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