ホンダエンジンの獲得とアクティブサスの開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 03:48 UTC 版)
「チーム・ロータス」の記事における「ホンダエンジンの獲得とアクティブサスの開発」の解説
1987年よりホンダエンジンを搭載し、ダンフリースに代わるセナのチームメイトとして、日本人初のF1レギュラードライバーとなる中嶋悟が加入した。この年のマシン99Tは、完全なアクティブサスペンションを搭載した初のマシンである。出力の分散、重量の増加やアクティブサスの不具合などもあり同じホンダエンジンのウィリアムズと比較して戦闘力に劣り、公道コースで行われたモナコGPとアメリカGP以外では勝つことができず、そしてこのアメリカGPの勝利がロータスにとっての最後の優勝となった。 しかしこの年まではまだ上位を争う戦闘力を保っており、第7戦イギリスGP(シルバーストン)では3位(セナ)と4位(中嶋)を獲得し、ウィリアムズの2台と合わせ、ホンダエンジン車による、ワンツースリーフォーフィニッシュ(1-4位独占)というホンダにとって初となる記録が達成された。 1988年には残留した中嶋のチームメイトに、3回のワールドチャンピオン経験者であるネルソン・ピケを迎えたが、前年を上回る成績は残せなかった。勝利はなく表彰台もピケの3回のみ。この年投入された100Tはマシンバランスが悪い上にトラブルによるリタイアが多かっただけでなく、同じエンジンを搭載するマクラーレンと比べエンジントラブルも多かった。この原因はガソリン/オイルメーカーの違いが影響したのではないかと言われている。シェルを使用するマクラーレンにほぼトラブルがなかったのに対し、ロータスはエルフを使用しており、エンジンがガソリンもしくはオイルとマッチングしなかったことによるものとされている。また、マクラーレンに比べてマシンの重心位置が高くハンドリング性能が劣っていたとされる(マクラーレン・MP4/4は低重心を徹底されたデザインだった。そして当時のホンダエンジンも低重心型であった)。 なお、ウィリアムズ時代にはピケの契約金はホンダが出していたが、ロータスに移ってからはそれもなく、キャメルからのスポンサー・フィーの半分近くがピケとの契約金となってしまうため、実質的な運営資金も潤沢とは言えなかった[要出典]。また、昨年ワールドチャンピオンになったにもかかわらず、トラブルの多いマシンにてこずったせいかピケのドライビングも冴えず、予選、決勝ともに、デビュー2年目の中嶋に何度も先を行かれることもあった。
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