ベイコンとバージニア議会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/12 09:15 UTC 版)
「ベイコンの反乱」の記事における「ベイコンとバージニア議会」の解説
ベイコンとその部隊はインディアンに対する攻撃を続けた。ベイコンの部隊の数がバークリーのものを上回っていたので、総督は、もしベイコンが恭順するならば恩赦を発し、その後はイギリスに送られて国王チャールズ2世の前で裁判に掛けると約束するしかなかった。バージニア植民地議会の多くの議員はベイコンに同情的であり、ベイコンを議員の一人にも選ばれるようにした。 ベイコンはこの議員選出のお陰で1676年6月の重要な植民地議会に出席し、以前の行動について釈明する機会を持った。バークリーは直ぐにベイコンを赦し、議会の席を占めることを許可した。ベイコンとその支持者はインディアンに対して防衛以上の行動に出ることを求めた。さらに植民地政府の大きな改革も求めた。インディアン問題を論じているうちに、事態は頂点に達し、ベーコンとその部隊がジェームズタウンの議事堂を取り囲み、総督に対して政府の干渉無しにインディアンに対する作戦を実行するというベーコンの要求を飲ませた。この譲歩は短期間のものとなり、バークリーは約束を守らなかったので、反乱軍は7月30日から9月までジェームズタウンの町を占領した。7月30日にはベイコンが人民宣言を発した。 バークリーが、ロンドンを母港とする武装商船隊の助けを得て、町を取り返すために戻ってくると、ベイコンは町を焼いた。ベイコンはほんの短期間バージニアを支配したが、その成功は直ぐに終わった。10月26日、ベイコンは赤痢で死んだ。ベイコンの部下達はベイコンの遺体を焼いたので発見されなかったと考えられている。反乱軍の何人かは処刑されるか財産を没収された。イギリス海軍と調査委員が到着した後で、反乱者はその不平の陳述を許可され、大量の恩赦が下された。調査委員はバージニアの住民の大多数が反乱を支持していたことを認識した。バージニア植民地が生き残っていくためには、妥協が必要だった。バークリーは調査委員によって総督を解任された。バークリーは1677年7月9日、イングランドで死んだ。
※この「ベイコンとバージニア議会」の解説は、「ベイコンの反乱」の解説の一部です。
「ベイコンとバージニア議会」を含む「ベイコンの反乱」の記事については、「ベイコンの反乱」の概要を参照ください。
- ベイコンとバージニア議会のページへのリンク