ヘンリー・ドネルソン方面作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/08 01:40 UTC 版)
「テネシー軍」の記事における「ヘンリー・ドネルソン方面作戦」の解説
詳細は「ヘンリー砦の戦い」および「ドネルソン砦の戦い」を参照 12月20日、グラントの部隊にスミスの部隊が加わり、その名称はケイロー軍管区と変更された。1862年2月、北軍はテネシー川沿いのヘンリー砦、およびカンバーランド川沿いのドネルソン砦に対する作戦を開始した。この作戦におけるグラントの部隊の兵力は約27,000人であり、3個師団に分かれていた。師団長はそれぞれ、マクナーランド(第1師団)、スミス(第2師団)およびルー・ウォーレス准将の第3師団だった。 グラントは、マクナーランドおよびスミスの2個師団のみを率いてテネシー川を遡り、ヘンリー砦に向かった。2月6日、グラントが部隊に攻撃態勢を取らせる前に、砦はミシシッピ川戦隊司令であるアンドリュー・H・フットの前に降伏した。数日後、冬の寒さの中、グラントの2個師団の大部分が、12マイルしか離れていない場所に位置する、より強力なドネルソン砦に向かって行軍を開始した。いくつかの北軍の連隊が、水路でドネルソン砦近くに到着し、これらの部隊はウォーレスの下に第3師団を形成した。ドネルソン峠の戦いは2月13日に開始され、激しい戦闘の後、2月16日に約15,000人の南軍守備部隊は無条件降伏した。 「テネシー軍」の名称が使用される1ヶ月前ではあるが、ヘンリー・ドネルソン方面作戦でグラントが指揮した3個師団が、この有名な軍の中核となり、またこの重要な勝利はその後の成功を予言するものであった。一人の歴史家は、ヘンリー・ドネルソンの勝利を「北軍の最初の明確な勝利であり、南軍の西部の防衛戦を断ち切るという成果をもたらし、ケンタッキーを北軍側に確保し、南部、特にテネシー州への侵攻路を開いた。」と記述している。別の歴史家は、グラントの部隊は、「作戦中に驚異的な勇敢さと忍耐を見せ」また「激しい戦闘が勝利をもたらす」ことを学んだと述べている。作戦の明確な成功の結果、グラント、マクラーナンド、スミス、ウオーレスは、全員が志願兵の少将に昇進した。グラントは他のいかなる条件での降伏も認めなかったため、「無条件降伏のグラント」として国民的な英雄となった。
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