プロ入りとブラウンズ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 02:19 UTC 版)
「ジョージ・シスラー」の記事における「プロ入りとブラウンズ時代」の解説
オハイオ州マンチェスターに生まれ、ミシガン大学からセントルイス・ブラウンズに入団。 1915年から85試合に出場し、打率.285、3本塁打の成績を残す。投手も兼任していたが、主に一塁手としてプレイした。 1916年は打率.305を記録し、3年目からは3割5分前後の高い打率を残して一躍スターダムにのし上がる。 1918年には盗塁王を獲得した。1918年シーズン後に徴兵され、タイ・カッブやクリスティ・マシューソンと共にフランスのショーモンに拠点を置くアメリカ合衆国陸軍化学作戦部隊に所属している。 1920年、開幕直後から絶好調で順調に安打数を伸ばし、シーズン257本のMLB記録を打ち立てた。(最多安打記録は2004年にイチローに抜かれるが、イチローの時代が162試合制なのに対し、シスラーの時代は154試合制であった)。この年はリーグトップの打率.407で首位打者を獲得し、二塁打・三塁打・本塁打・打点などでもリーグ2位を記録した。 1922年にはタイ・カッブと激しい首位打者争いを繰り広げ、打率.420、246安打、51盗塁を記録。首位打者・盗塁王に加えて、初のMVPに輝いた。打率.420は近代野球において3番目に高い打率である。142試合で246安打しており、ペース的には1920年よりも多い。また、同年は41試合連続安打の記録も達成しており、1941年にジョー・ディマジオが破るまで近代MLB記録であった。 1923年、目の病気(副鼻腔炎が悪化し視神経を侵される)で1年間を欠場する。 1924年から選手兼任監督として復帰したが、病気以降は走塁や守備で精彩を欠くようになり、打撃も全盛期の成績が残せなくなった。監督業を続けながら、目が悪いながらも打率3割は保っていたが、1926年にデビューの年以来の3割以下(.290)に終わった。
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