プロデューサーへ転身
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 12:56 UTC 版)
1955年のTBSのテレビ開局直後、「『東芝日曜劇場』のプロデューサーになってほしい」と声がかかった。当初日本電建の社員ということを理由に断るが、TBSの編成局長が日本電建の社長に直接掛け合ったことで、日本電建社員兼TBSの嘱託社員となることが決まる。以後3年間は、「平日は日本電建の仕事、土日はTBSの仕事」と休日返上で働いた。 その後TBSの上司から本格的に制作スタッフとしてドラマに携わるよう指示を受け、キュー出しから仕事を学び始めた。いくつかの現場の仕事を経験した後、1958年にテレビドラマ『橋づくし』(原作・三島由紀夫)で初めて制作を手掛けた。それ以降プロデューサーとして原作者のドラマ化の許可などを交渉したり、キャスティングに奔走するようになる。日本電建退社を機に、それまでTBS嘱託社員だったのが正式に社員になった。 ちなみに原作者などの交渉でOKをもらうコツとして、「交渉は、とにかく一生懸命やること。『私はこの企画をやりたい。そのためにはあなたのOKが必要なんです』と素直な気持ちを相手に伝えるしかない」と語っている。また交渉には、必ず一人で行くことにしている。本人曰く「もし複数でお願いにあがっても全員が同じ気持ちとは限らないし、本当の熱意が伝わりにくい」とのこと。
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