プラチアチョン活動期
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「ケオ・メアス」の記事における「プラチアチョン活動期」の解説
1954年の休戦後、メアスはジュネーヴ協定履行共同委員会において、クメール・イサラクを代表し、ベトミン側委員として参加した。また同年、クメール人民革命党プノンペン支部支部長補佐に任ぜられ、「準合法」活動を担当することになった。人民革命党は秘密政党であったため、メアス、ノン・スオンおよびペン・ユースは、休戦協定に基づく1955年選挙に合わせ、党の合法的フロント組織を形成する任務が与えられた。1954年末、彼らは「クメール・トース」(クメール抵抗組織)の名称で登録しようとしたが、当局により却下された。1955年初め、より中立的な「クロム・プラチェアチョン」(人民派)として登録した。しかし、同年9月の選挙では政府側の圧力と妨害により、シハヌーク前国王の率いる「サンクム」が圧勝し、プラチアチョンは議席を獲得できなかった。 1956年5月、ケオ・メアスはノン・スオン、ノプ・ボファン (Nop Bophann) と共に 、「プラチアチョン」を週刊新聞として活動再開させた。 クメール人民革命党が危機の時代を過ぎたとき、トゥー・サムートは4人のメンバーからなる党指導部(「都市委員会」と呼ばれた)を再組織した。ケオ・メアスも同委員会の一人だと思われるが、しかし彼に代えてサロト・サル(ポル・ポト)を第4の委員とする報告も存在する。 1958年3月の議会選挙時、「クロム・プラチアチョン」は敢えて5人の候補を擁立し、メアスはプノンペン選挙区において立候補した。しかし、過酷な政治情勢により、「クロム・プラチアチョン」候補で全ての選挙活動を成し遂げることが出来たのは、ケオ・メアスただ一人であった。しかし、得られた得票は、公式結果では396票だけであった。選挙の直後、メアス地下に潜り、プノンペンを離れた。そしてプノンペン党支部書記はポル・ポトが引き継いだ。 1960年9月のクメール人民革命党第2回党大会において党名は「カンプチア労働党」に変更されるとともに、ケオ・メアスは党中央委員に選出され、党内序列第6位となった。しかし、1963年2月の党大会においては、党中央委員会から外された。 1963年、ベトナム国境地帯の「第100局」基地で仲間と合流し、1965年まで過ごすことになる
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