ブッテンハイム城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/14 07:53 UTC 版)
ブッテンハイムには元々2つの城があった。オーベレ・シュロス(上の城、ダイヒゼルブルクともいう)とウンテレ・シュロス(下の城)である。両方ともシュティーバール男爵家の所有で、男爵家はこの他にも近辺のアイシュ、プレッツフェルトおよびエルムロイトに3つの城館を持っていた。シュティーバール家は、1253年に遡る家柄で、かつては、クローナハ、ニュルンベルク、ブッテンハイムおよびクルムバッハに囲まれた帝国直轄領の騎士カントーンに属していた。中世にこの一門からは、多くの女子修道院長、ドイツ騎士団の騎士、バンベルクやヴュルツブルクの司教座教会参事会会員を輩出した。1377年から1560年の間に、少なくとも14人の司教座教会参事会会員がこの家門から出ている。 オーベレ・シュロスは、四隅に塔を持つ四角形の城壁に囲まれた城であったが、1525年のドイツ農民戦争の際に略奪され、炎上した後、再建されていない。 現在、ブッテンハイム城とされているのはウンテレ・シュロスで、元々はリヒテンシュタイン家の居館であったのを、1438年にシュティーバール家が受け継ぎ、ブッテンハイムに移築したものである。 シュティーバール家は、当時ブッテンハイムで、シュリュッセルベルクの裁判権を掌握していた。シュティーバール家の資産であるウンテレ・シュロスは何度も焼失を繰り返している。1492年、アルブレヒト・シュティーバールとバンベルクの司教領主ハイリヒ3世の間のフェーデによって、1525年には「反乱を起こしたよそ者」によって、さらに1561年にも使用人が部屋の明かりをうっかり消し忘れて眠ってしまうという不注意から出火している。ハンス・ヨアヒム・フォン・シュティーバールが、この被害を修復した。シュティーバール家は、非常に早い時期からルター派の信仰を公言していた。1591年にはすでに、ブッテンハイム城にプロテスタントの説教師を招いたことが文献に記されている。 1630年、シュティーバール家は、皇帝の命令により、その所有地を押収された。ブッテンハイムは(従ってブッテンハイム城も)、数年間、シュヴェルツェンベルク侯ゲオルク・ルートヴィヒのものとなった。1648年、ヴェストファーレン条約が締結され、シュティーバール家はその地所を回復することができた。 1762年、シュティーバール男爵ヨハン・ゲオルク・クリストフ・ヴィルヘルムが亡くなり、この家門のフランケン地方における主流は断絶した。そのレーエンはバンベルク司教、ヴュルツブルク司教、ザクセン=コーブルク公の間で分配された。私有財産は、相続人である未亡人と娘に受け継がれた。 エアランゲンで法律を学んでいたブランデンブルク宮廷の廷臣ヴィルヘルム・クリスティアン・フリードリヒ・フォン・ゼーフリートは、1761年にエリーザベト・ゾフィー・フォン・シュティーバールと結婚していた。数年後、この婚姻に基づき彼はブッテンハイムに移り住んだ。当時の「中世然とした、重厚な、真四角な、マンサード屋根のある火事で壊れ煤けた塔」のあるウンテレ・シュロスを壊して、1774年に、現在もその中にプロテスタントの礼拝堂を持つ塔とともに現在のバロック様式の城を建設した。 1763年にヴィルヘルム・クリスティアンは「話し合い」によって新たな城の教区を設けた。1790年、個人的には生涯プロテスタントの信仰にかけたヴィルヘルム・クリスティアンは男爵に昇格した。1814年に「城の礼拝堂区」は「プロテスタントの城の教区」になった。1826年8月27日に城の礼拝堂は、地区の教会堂として奉献された。 現在も、ヒルシュハイト教区内にあるにもかかわらず、城の礼拝堂はブッテンハイムのプロテスタント教区教会として利用されている。 ヴィルヘルム・クリスティアンの時代から現在まで、ブッテンハイム城は、常に彼の子孫の居館であり続けている。
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