ブダペストでの生活
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「センメルヴェイス・イグナーツ」の記事における「ブダペストでの生活」の解説
1848年から1849年にかけて、ハンガリーでは7万人のオーストリア帝国軍が革命・独立運動を鎮圧し、指導者たちを処刑ないし逮捕し、ペシュトの一部を破壊した。センメルヴェイスがウィーンから帰ったのは1850年の事で、あまり歓迎されることはなかった。 1851年5月20日、センメルヴェイスはペシュトの小さな聖ロクス病院(ハンガリー語版)の名誉医院長に就任した。無報酬で取るに足らない役職だったが、彼は1857年6月まで6年間この地位にいた。この病院でも産褥熱が横行していた。ペシュトに帰って間もない1850年にこの医院を訪れた時、センメルヴェイスは一つの死んで間もない遺体と、苦しむ患者たち、そして中でも4人の病状がひどい患者たちを目にした。センメルヴェイスは1851年のうちに、この病を病院からほとんど駆逐した。1851年から1855年にかけて、933人が出産した中で、死亡したのはわずか8名(死亡率0.85パーセント)であった。 こうした明らかな実績を出しても、彼の説は他のブダペストの産科医たちに受け入れられなかった。ペシュト大学の産科教授エデ・フローリアーン・ビルイ(英語版)も、産褥熱は患者の腸の不衛生の結果であると信じ続け、センメルヴェイス説を採用することはなかった。そのため、主流派の腸の瀉下による治療が変わることはなかった。 1854年にビルイが死去すると、センメルヴェイスはその後任に名乗りを上げた。しかしここでも、かつてクライン教授の助手の地位を奪った宿敵カール・ブラウンが対抗馬となり、主にハンガリー人の同僚などから、センメルヴェイスを上回る支持を集めた。1855年、この職は最終的にセンメルヴェイスが勝ち取ることになった。といってもそれはセンメルヴェイスの業績が認められたからではなく、ウィーン当局が介入してきてハンガリー語を話せないブラウンがペシュト大学の教授に就くことを認めなかったためであった。教授となったセンメルヴェイスは、ペシュト大学の産院に塩素消毒を導入した。ここでも、その効果は絶大であった。 1857年、センメルヴェイスはチューリッヒ大学から産科の教授職への誘いを受けたが断った。同年、彼はペシュトの成功した商人の娘で19歳年下のマーリア・ヴァイデンホーファーと結婚した。2人の間には5人の子が生まれた。 アントーニア ティツィ (1864年 - 1942年) マーリア (1859年 - 1860年) 4か月で死去 イグナーツ (1858年 - 1858年) 生まれて間もなく死去 マルギット マーツィ (1861 - 1928) 未婚のまま死去。 ベーラ (1862 - 1885) 23歳で自殺(おそらく賭博の末に背負った借金のため)
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