フォークソノミーの便益
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 21:11 UTC 版)
「フォークソノミー」の記事における「フォークソノミーの便益」の解説
情報検索や図書館情報学のプロが意味を明確にしながら構築した統制語彙(統制語、統制索引語、 controlled vocabularies )による分類法と違い、フォークソノミーはシステマチックではなく、情報科学者の目から見れば洗練されていない分類法である。しかし、インターネットのユーザーにとっては、複雑な、階層的に組織された命名法を習わずにすむため、コンテンツの分類のコストがきわめて低くなる。ユーザーはその場でタグを作りコンテンツにつければいいだけである。 さらに、フォークソノミーは生来的に、際限がなく終わりのないオープン・エンドな過程であり、ユーザーのコンテンツの分類方法が変わったり進化したりするたびに即座に反応できる。オープンソースによるソフトウェア開発や、ウィキペディアのようなウィキシステムなど、共有財に基づく共同制作(ピアプロダクション、commons-based peer production)システム同様、タグ作りやタグ付けに貢献する個々人の能力に差があるとしても、こうした制作過程は結果として専門家によりデザインされた最高のシステムにも匹敵する成果を生むことができる。 フォークソノミーのもっとも偉大な便益は、情報検索の際のセンスなど、その検索能力にあるだろう。これは、タグがインターネット上の資料の「だいたいの内容」を記述する能力による。つまるところ、フォークソノミーは、タグ付けの対象となるコンテンツ(写真やブログやニュースなど)を見たり反応したりするのに長い長い時間を費やして知り尽くしているような人たちが作っているから分類能力も洗練されたものとなるのである。 フォークソノミーでできるカテゴリーは、常識的な人たちから見れば、救いがたいほど特異で変わっているとびっくりされるかもしれない(例:「これはひどい」「後で読む」「萌え」「非モテ」「作者は病気シリーズ」など)が、そこにフォークソノミーの価値もある。フォークソノミーの分類用語やカテゴリーは、コンテンツと、それにタグをつけた人との個人的な繋がり(雑感、思い入れ、価値判断)から生まれたもので、タグ付け作業も不完全で仮につけただけという性格を持つこともあるが、結果としてできるカテゴリーは個人的なもので、かつコミュニティが判断しておかしくないかという社会性も持ち、ある種システマチックなものになる。それゆえ、フォークソノミーはそれを分類した人の考えなどさまざまなレベルの情報を含み、タグ付けした人とそれを読んだ人々との人同士の繋がりが発生し、投稿者や閲覧者同士のコミュニケーションの手段にもなる。もしある人が誰かの分類手法に共感すれば、それが他人から見てどのように奇妙なものであれ、その人がタグ付けした他のコンテンツも見ようという気持ちにだんだんとなるだろう。
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