ニューギニア・マリアナ
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「マニラ・ベイ (護衛空母)」の記事における「ニューギニア・マリアナ」の解説
3日後の4月22日、アメリカ軍はニューギニアのアイタペ(英語版)、ホーランジアおよびタナメラ湾に対する攻撃を行った。上陸作戦が行われた後、マニラ・ベイはアイタペ地域で空中哨戒と日本軍拠点への攻撃を行い、戦闘機と攻撃機を送り込んだ。5月4日にマヌス島に帰投後、空母群司令官がフェリックス・スタンプ少将に交代し、スタンプ少将は2日後に自身の将旗をコレヒドール (USS Corregidor, CVE-58) に移した。マニラ・ベイはオーバーホールのため真珠湾に向かい、5月18日に到着した。 オーバーホール後のマニラ・ベイは、第7空軍宛てのP-47 サンダーボルト37機を積み込み、6月5日にナトマ・ベイ (USS Natoma Bay, CVE-62) とともに真珠湾を出港してマリアナ諸島方面に向かった。途中、エニウェトク環礁に立ち寄り、6月19日のマリアナ沖海戦の大勢が判明するまではサイパン島の東方洋上で待機するよう命令された。海戦は日本海軍艦隊に多大な損害を与え、特に航空戦力は著しく衰退した。 6月23日、マニラ・ベイはナトマ・ベイとともにサイパン島東方で洋上給油を行っている最中に日本機の空襲を受けた。2機の戦闘爆撃機が4発の爆弾を投下してきたが、激しい対空砲火によって2機とも撃墜した。この時、第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将に「立派な行動」として称えられた行為があった。マニラ・ベイはレーダーで怪目標を探知した後、空中哨戒のために、ナトマ・ベイともども輸送中のサンダーボルトを発進させたのである。サンダーボルトの一隊は、空中哨戒を終えると占領したばかりのイズリー飛行場に向かっていった。マニラ・ベイは6月27日にエニウェトク環礁に帰投し、207名の負傷者を収容した後、7月1日に出港して8日に真珠湾に寄港し、7月16日にサンディエゴに到着した。 8月31日、マニラ・ベイは真珠湾に戻ってきた。2日後、フイットシュー・リー艦長が着任し、第80混成航空隊 (VC-80) が配属された。9月15日、マニラ・ベイは引き続き第24空母群の一艦として真珠湾を出撃し、エニウェトク環礁を経由して10月3日にマヌス島に到着。フィリピンの戦いに備えた最終準備に入った。
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