ナゴヤシネアスト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 16:56 UTC 版)
「名古屋シネマテーク」の記事における「ナゴヤシネアスト」の解説
1970年代初頭の名古屋にはシネクラブ連絡会議の構成団体である名古屋シネクラブがあり、『中国女』(ジャン=リュック・ゴダール監督)、『地下水道』(アンジェイ・ワイダ監督)などの自主上映会を毎月1本の頻度で2年ほど行っていた。その他にも様々な自主上映会があり、また大学の映画研究会による上映会も盛んにおこなわれた。『中国女』の上映会には2日間で700人から1000人もの観客が集まったという。 1971年(昭和46年)1月23日、現名古屋シネマテーク代表の倉本徹が所属する名古屋大学映画研究会は、名古屋市中区で初の自主上映活動を行った。この頃は高校生・大学生の会員が7割を占めていた。1972年(昭和47年)には映画研究会が空中分解したが、1973年(昭和48年)には活動を再開し、倉本を代表とする自主上映サークル「ナゴヤシネアスト」(シネアストとは映画人の意味)となった。ナゴヤシネアストは大島渚監督特集、ジャン=リュック・ゴダール監督特集、ポーランド映画特集、ソ連映画特集、アラン・レネ監督特集などを上映したが、名古屋市内の貸しホールを使った上映活動は赤字続きだった。 倉本は地元予備校の河合塾講師として活動資金を稼ぎながら、ナゴヤシネアストは9年間に渡って自主上映活動を続けた。1976年(昭和51年)には大須に実験映画専門の大須実験ギャラリーが開設され、自主上映団体が定期的な上映を行った。やがて自主上映団体の多くが消えてゆき、1980年代まで残ったのはシネマルームT&Gとナゴヤシネアストくらいとなった。1980年(昭和55年)のナゴヤシネアストは年間約80日間の上映活動を行い、100本以上の映画を上映した。
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