ドルススの失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 04:31 UTC 版)
この戦争を同盟市戦争と呼ぶのは、少しでも聞こえを良くするためで、実際には市民に対する戦争である。同盟市がドルススの権力欲にそそのかされ、自分たちの力で大きくした国の、市民としての権利を、正当なものとして要求したところ、ドルススは仲間達に裏切られて焼き尽くされ、今度は彼らに対してその炎が向けられたために、彼らは武器をとってローマを攻撃したのだ。この災厄ほど大きく悲惨なことが他にあるだろうか。 フロルス『ローマ史概要』2.6 リウィウスの散逸した部分の概略によれば、紀元前91年、マルクス・リウィウス・ドルスス (護民官)は、イタリック人たちに市民権の付与を約束(Rogatio Livia de civitate sociis danda、同盟市に市民権を付与するリウィウスの提案)し、土地分配や穀物供給に関する法や、審判人を元老院議員とエクィテスで半々にする法(Lex Livia iudiciaria)を通過させようとしたが、イタリック人との約束を守れなかったため、彼らの怒りが同盟市戦争へ駆り立てたとしている。 土地分配法の失敗は、エトルリア人やウンブリアの人々にとっては朗報であったろう。そのため、彼らは同盟市戦争に加わらなかったが、ローマ側に味方もしなかった(リウィウスの概略やアッピアノスには、ウンブリアとエトルリアで反乱が起こり、兵力不足を補うため解放奴隷を徴用したことが記されているが、それほど大規模なものとは思われない)。だが、他のイタリック人にとっては、このドルススの失敗によって、彼らの軍内での地位向上や、利権侵害に対抗するために必要な市民権への道を絶たれてしまったのである。リウィウスの他に、キケロや大プリニウスも、このドルススの失敗を同盟市戦争の原因とみなしている。
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