ドキュメンタリーと報道の違い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 09:51 UTC 版)
「ドキュメンタリー」の記事における「ドキュメンタリーと報道の違い」の解説
社会問題を取り上げるという点においてはドキュメンタリーも報道も同じだが、森達也は、ドキュメンタリーは制作者の主観や世界観を表出することが最優先順位にあるのに対して報道は可能な限り客観性や中立性を常に意識に置かなければならないという違いがあると述べている。 また森は、中国人が作ったドキュメンタリー映画を文化庁が助成したことを自民党一部議員が疑問視した結果として複数の映画館で上映が中止になった事案の発生に際し、ドキュメンタリーの本質について以下のように述べた。 自民党の有村治子議員が国会で、被写体となった刀匠が自分の映っている場面を削除してほしいと主張していると発言して、大きな波紋を広げています。ドキュメンタリーを作る立場から言えば、これはとても重要な問題を提起しています。事前に被写体に見せて了解をとる。これが前提なら映画をつぶすのなんて簡単ですね。ドキュメンタリーというジャンルは確実に滅びます。僕も、原一男もマイケル・ムーアもみんな転職せねばならなくなる。自作の映画「A」を引き合いに出します。中盤に警察官による不当逮捕のシーンがあります。あの警官が「俺の映っているシーンは使うな」と言ってきたら、ぼくはどうすればいいのでしょうか。あるいは映り込んでいる多くのメディア関係者、彼らの了解も得ていません。もちろん編集済みの映像も見せていない。ならば上映できないのでしょうか?ドキュメンタリーは現実を切り取って、その断片を素材に再構成した自己表現です。人権や規範を最優先にしていては何も撮れなくなる。稲田議員は試写会の前にこう言いました。「客観的でなければドキュメンタリーではない」と。僕はこれでキレました。冗談じゃない。ドキュメンタリーは主観です。作る側の思いです。メディアについてもっと鋭敏な感覚を持たなければならない政治家が、この程度のリテラシーしか持て得ないのならあまりに情けない。 — 森達也、創出版『映画靖国上映中止をめぐる大議論』「2008年4月14日MIC/JCJ主催の集会での講演」p58-60
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