トランスヨルダン
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トランスヨルダン
- トランスヨルダン (地域)
- トランスヨルダン (十字軍領)
- トランスヨルダン首長国
- ヨルダンの1949年6月までの名称
- 聖書におけるトランスヨルダン
トランスヨルダン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 04:31 UTC 版)
フランスとイギリスは、1920年7月ヒジャーズ王国の王族でシリア王だったファイサル1世を追放し、1921年3月にファイサル1世の兄で、シリアからフランスを追い出すことを公言していたアブドゥッラー・ビン=フサインをヨルダン川両岸の領土に迎え入れてトランスヨルダンを成立させることで、この地域の独立運動の沈静化を図った。アブドゥッラー1世は、紅海に面した交通の要衝であるアカバなど南部地域を併合し、現在のヨルダンの国土の基礎を築いた。 トランスヨルダンは多くのパレスチナのアラブ住民を抱えたが、1923年にアブドゥッラー1世がロンドンでハイム・ヴァイツマンと会い、ヨルダン川西岸のユダヤ人殖民地を認める代わりに自身のアミール(君主)の地位の向上を求めていたとして、パレスチナ民族主義者から強い反発を招くこととなった。 1934年、アブドゥッラー1世は国内のパレスチナとトランスヨルダンを統一して彼の承認のもと首相を選出することを提案したが、ユダヤ人入植者の権利を認める内容だったためパレスチナ側からは疑心を招いた。1936年にはパレスチナ人の反乱が起き、アブドゥッラー1世はイギリスに対しパレスチナ人指導者を追放する要請を密かに行った。 1937年のピール委員会(Peel Commission)でパレスチナの分割案が提示されると彼はアラブ世界でただ1人、この案を条件付きで支持した。 第二次世界大戦後、イギリスはこのパレスチナの委任統治を放棄。これをうけて1946年5月25日に独立を宣言する。
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