ディスカバリー遠征、1901年–1904年
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「トム・クリーン」の記事における「ディスカバリー遠征、1901年–1904年」の解説
詳細は「ディスカバリー遠征」を参照 ディスカバリーは1901年12月21日に出港した。その7週間後1902年2月8日にマクマード・サウンドに到着し、「ハットポイント」と呼ばれる場所に碇を降ろした。ここで科学と探検の橇旅行を始めることになる基地を設立した。クリーンは隊の中では最も着実な橇曳きの一人であることが証明された。48名居た隊員の中で7名のみが、クレーンの149日よりも長くハーネスに関わったことがあるだけだった。クリーンはユーモアの感覚が良く、隊の仲間からも好かれた。スコットの副隊長アルバート・アーミテージはその著作『南極での2年間』の中で「クリーンは機知に溢れ、何物も気を逸らさない性格ですらあるアイルランド人だ」と記していた。この遠征ではウィリアム・ラシュリーやエドガー・エバンスと親密な友情を形成し、その後の10年間では3人とも経験を積んだ極圏探検家として評価されることになった。 クリーンは当時「グレート・アイス・バリア」と呼ばれていたロス棚氷を横切る3回の橇旅行でマイケル・バーン大尉と行動を共にした。その旅の中には、バーンが率いた12人の隊員による補給所設置の旅があった。これは1902年10月30日に出発し、スコット、シャクルトンおよびエドワード・ウィルソンが行う南行本隊を支援するために、補給物資を置いて行くものだった。11月11日、バーン隊はそれまでの最南端である南緯78度50分を過ぎた。それはカルステン・ボルクグレヴィンクが1900年に打ち立てた記録だった。南行本隊がその後直ぐにそこを通り過ぎ最終的に南緯82度17分まで達した。 1902年の南極の冬の間、ディスカバリーは氷に閉ざされていた。1902年から1903年の夏に、それを解放しようとしたが失敗した。アーネスト・シャクルトンを含み隊員の幾人かは救援船で南極を離れたが、クリーンと隊員の多数は留まり、ディスカバリーは1904年2月になってやっと解放された。クリーンは文明世界に戻って来た後、スコットの推薦に基づき、下士官第1等に昇格された。
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