テーズ戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 08:46 UTC 版)
テーズ戦後しばらくは低迷したがまもなく立ち直り、国際プロレスの中心レスラーとして長く活躍した。1968年4月8日には山口県岩国市にてトニー・チャールズを破り英国西部ヘビー級王座を獲得。以降、翌1969年9月のワイルド・アンガス戦を最後に王座が封印されるまで、アルバート・ウォールやミスター・ギロチンなどの英国勢を相手に防衛戦を行った(その間の1968年9月11日にはブル・デービスとのダブルタイトル戦に勝利して英国南部ヘビー級王座も獲得、英国地区王座の2冠王となっている)。1970年5月18日には千葉県館山市において、当時ビル・ロビンソンが保持していたIWA世界ヘビー級王座に挑戦しているが、国際プロレスの看板タイトルである同王座には一度も戴冠することはなかった。 タッグでは、IWA世界タッグ王座をパートナーを代えて再三保持しており、サンダー杉山とのコンビではモンスター・ロシモフ&マイケル・ネイダーやラリー・ヘニング&ボブ・ウインダム、ストロング小林とのコンビではディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーやマッドドッグ・バション&イワン・コロフ、ラッシャー木村とのコンビではテキサス・アウトローズやスーパースター・ビリー・グラハム&バロン・フォン・ラシク、ニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンスなどの強豪チームとタイトルを争った。 アメリカ遠征でも実績を残し、1971年9月11日にネブラスカ州オマハにてラモン・トーレスからAWA中西部ヘビー級王座を奪取、ビル・ミラーとの防衛戦も行われた。戴冠中の10月9日と12月18日には、同所においてバーン・ガニアのAWA世界ヘビー級王座に連続挑戦した。 デスマッチ戦線でも活躍しており、アメリカ遠征から帰国直後の1972年6月30日、岐阜市民センターにおいてバロン・シクルナを相手に自身では初の金網デスマッチを行った。1973年11月28日の横浜文化体育館大会ではワフー・マクダニエルからインディアン・ストラップ・マッチで勝利を収め、1974年7月1日の九電記念体育館大会では、覆面レスラーのザ・キラー(正体は初代ザ・マミーのベンジー・ラミレス)とテキサス・チェーン・デスマッチを行った。試合はチェーン装着前にキラーが草津に襲い掛かり、早々に流血させられたが最後はバックドロップで草津が逆転勝利している。国際プロレスは木村の「金網デスマッチの鬼」に対して、草津を「チェーン・デスマッチの鬼」に仕立て上げようともしていた。
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