チャーリーのマネージャーと航空会社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 09:37 UTC 版)
「シドニー・チャップリン (1885年生)」の記事における「チャーリーのマネージャーと航空会社」の解説
シドニーは1915年限りでキーストン社との契約を終える。そして、チャーリーを説き伏せてマネージャーになることを申し出る。チャーリーの人気にあやかった様々な商品が出回るようになり、シドニーはそれらの商品から出る利益を兄弟で独占しようと目論んでいた。さっそく音楽出版社と広告会社を立ち上げるが、経費ばかりがかさんでうまくいかなかった。このような失敗もあったが、チャーリーが金銭面や社交面での約束事にとんと興味がなかったこともあって、シドニーは次第に秘書格としてチャーリーのために尽くすようになる。チャーリーは1918年からはファースト・ナショナル(英語版)と契約。シドニーはチャーリーのファースト・ナショナルでの第一作『犬の生活』に出演し、俳優業に復帰する。『公債』や『担へ銃』、『偽牧師』といった一連のチャーリーの作品への出演の一方、『キング・クイーン・アンド・ジョーカー(英語版)』(1921年)、『パーフェクト・フラッパー(英語版)』(1924年)、『ベター・オール(英語版)』(1926年)などの作品に出演。特に『ベター・オール』はワーナー・ブラザースが開発したヴァイタフォンで製作された2番目の映画であり、シドニーのフィルモグラフィーのなかでも知られた作品の一つである。1928年に製作された "A Little Bit of Fluff" が、シドニー最後の出演作として記録されている。 チャーリーが依然として映画界を席巻しているころ、シドニーは映画界以外の分野で重要な貢献をした。1919年5月、シドニーはパイロットのエメリー・ロジャースとともにカリフォルニア州サンタモニカを拠点とするシド・チャップリン・エアライン・カンパニーを設立したが、この会社はアメリカで最初の個人経営による航空会社であった。会社は少なくとも1年は続き、カーチス・エアロプレーンのためのショー・ルームを設置して航空便の認知に務めた。チャーリーの航空機初体験も、このシドニーの会社の航空機によるものであった。やがて、パイロットのライセンスや航空便に対する課税が強化される見通しとなった時、シドニーは会社から離れた。
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