チットールガル城とは? わかりやすく解説

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チットールガル‐じょう〔‐ジヤウ〕【チットールガル城】


チットールガル城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/03 21:06 UTC 版)

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チットールガル城
チットールガルの一部
インド共和国ラージャスターン州
チットール砦から見たチットールガル城
座標 北緯24度53分11秒 東経74度38分49秒 / 北緯24.8863度 東経74.647度 / 24.8863; 74.647
歴史
使用戦争
  • チットールガル包囲
  • 1303年(en
  • 1535年(en
  • 1567年–1568年(en
駐屯情報
使用者 チットールのマウリヤ朝、メダパタ王国のGuhila(Guhilas of Medapata)、メーワール王国のシソディア(Sisodias of Mewar
区分 Cultural
基準 ii, iii
登録日 36回世界遺産委員会
所属 ラージャスターンの丘陵城塞群
登録コード 247
State Party インド
Region 南アジア

チットールガル城(英語:Chittor Fort、Chittorgarh )とは、インド共和国ラージャスターン州にある国内最大の城の一つである。garh は城を意味することから、チットール城とも呼ばれる。

2013年に開催された第37回世界遺産委員会ラージャスターンの丘陵城塞群に含まれる形で世界遺産に登録された[1]メーワール王国の首都であったチットールガルに建てられた歴史的な宮殿、門、寺院、2つの有名な記念塔を含む要塞である[2][3][4]

麓の町にはインド最大のラージプートの祭り「Jauhar Mela」が年中行事として伝わり、一族の武勲をたたえ度重なるジョウハルで落命した人々を悼む[5]

歴史

7世紀にはじまり、メーワール王国によって支配された。9世紀から始まったパラマーラ朝に移った。1303年に、デリー諸王朝ハルジー朝アラー・ウッディーン・ハルジーが、チットールガル城に籠城したメーワール王国国王ラタン・シングを打ち破り占領した。メーワール王国がその後再興するものの1535年にグジャラート・スルターン朝のバハードゥル・シャーによって城が占領された。しかし、その直後にムガル帝国が撃退した。

1567年に、メーワール国王ウダイ・シング2世がムガル帝国アクバルへの服従を拒み続けたことから包囲戦が行われ落城した。この時、防御側の全ての兵士は儀式的に死兵となって突撃する saka を行い殉死し、女たちはジョウハル自害)したとされる。

1616年に講和が行われ、アマル・シングに返却された。

ギャラリー

市街側から見た城

関連項目

出典

  1. ^ チットールガル・フォート”. 世界遺産オンラインガイド. 2020年6月30日閲覧。
  2. ^ Bindloss 他 2007, pp. 124–126.
  3. ^ Indian States and Union Territories”. Places of Interest in Rajasthan: Chittorgarh. 2009年6月24日閲覧。
  4. ^ Chittorgarh Fort”. 2009年6月24日閲覧。
  5. ^ “The Fantastic 5 Forts: Rajasthan Is Home to Some Beautiful Forts, Here Are Some Must-See Heritage Structures”. DNA : Daily News & Analysis. (2014年1月28日). http://www.highbeam.com/doc/1P3-3191827171.html 2015年7月5日閲覧。 

参考文献

関連文献


チットールガル城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 17:57 UTC 版)

ラージャスターンの丘陵城塞群」の記事における「チットールガル城」の解説

チットールガル城 (Chittorgarh Fort, ID 247rev-001) は、チットールガルに残る城塞である。かつてメーワール王国首都であり、15世紀の王クンバー改築した宮殿跡、クンバー建てたストリンガー・チョーリ寺院ジャイナ教寺院)や勝利の塔(ヴィジャイ・スタンバ(英語版))、13世紀の名誉の塔(キルティ・スタンバ(英語版))などのほか、ミーラー・バイ寺院ヒンドゥー教)、ラーニー・パドミニ宮殿なども残る。ラーニー・パドミニ(王妃パドミニ)は、その美しさゆえに、手に入れよう目論んだハルジー朝アラー・ウッディーン・ハルジーチットールガル攻囲招いたという伝説が残る。伝説当否はともかく、チットールガル首都だったがゆえに度々の攻撃さらされ、特に14世紀から16世紀イスラーム勢力による攻囲では、戦いで犠牲になった男性たちだけでなく、名誉のために自決した女性たちの命も多く失われた16世紀にはムガール帝国アクバルによって陥落させられたが、その後激し抵抗続けられた。 構成資産選ばれ理由は、8世紀以来の古い建造物群残っていること、そして3度攻囲戦含めてラージプート歴史などに密接に結びついていることなどである。世界遺産としての登録面積305 ha緩衝地域440 haである。 チットールガル城遠景 クンバー宮殿勝利の塔(ヴィジャイ・スタンバ(英語版)) 名誉の塔(キルティ・スタンバ(英語版)) ラーナー・パドミニ宮殿

※この「チットールガル城」の解説は、「ラージャスターンの丘陵城塞群」の解説の一部です。
「チットールガル城」を含む「ラージャスターンの丘陵城塞群」の記事については、「ラージャスターンの丘陵城塞群」の概要を参照ください。

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