ラタン・シング (メーワール王)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ラタン・シング (メーワール王)の意味・解説 

ラタン・シング (メーワール王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/04 13:45 UTC 版)

ラタン・シング
Ratan Singh
メーワール王
在位 1302年 - 1303年
別号 ラーナー

出生 不詳
死去 1303年
王朝 グヒラ朝
宗教 ヒンドゥー教
テンプレートを表示

ラタン・シング(Ratan Singh, 生年不詳 - 1303年)は、北インドラージャスターン地方メーワール王国の君主(在位:1302年 - 1303年)。

生涯

1303年デリーハルジー朝に首都チットールガルが包囲され、ラタン・シングはチットールガル城に籠城した[1][2]。その原因はその君主アラー・ウッディーン・ハルジーグジャラートに侵攻する際、メーワール王国内の通過を拒否したことにあった[1]。また、メーワールはアジメールからマールワーに至る道を支配していた[1]

また、アラー・ウッディーンはラタン・シングの王妃パドミニーに大変愛着を抱き、横恋慕しようとしたとも伝えられる[1]。パドミニーはシンガルドゥウィーパ(スリランカ)の王女で、ラタン・シングは7つの海を渡り、多くの冒険を重ねてチットールガルへと戻ったという。ただし、これは100年以上たってから語られ始めたので、歴史家たちはこれを単なる伝説と見ている[1]

包囲はこの年の1月から8月まで続き[3]、ハルジー朝の軍勢は城に激しい攻撃をかけた[1]。その間、ラタン・シングは講和を求めて降伏したが、傍系のラクシュマン・シングをリーダーに籠城して抵抗を続けた[3]。結局、城兵はジョウハルを行い、多数の兵が戦死し、チットールガルは陥落した[1][3]

ラタン・シングは生け捕りにされ、その後しばらくのうちは捕虜となっていたとされる[1]。一方、チットールガルの支配はアラー・ウッディーンの幼い長男ヒズル・ハーンに委ねられ[1][4]、「ヒズラーバード」に改称されてしばらくの間デリー・スルターン朝の支配が続いた[4]。この間、メーワール王国は一時中断したが、1326年頃に傍系シソーディヤー氏族のハンミーラがチットールガルを奪還し、再興された[4][5]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i チャンドラ『中世インドの歴史』、p.96
  2. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.43
  3. ^ a b c 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.43
  4. ^ a b c 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.44
  5. ^ チョプラ『インド史』、p.100

参考文献

  • サティーシュ・チャンドラ 著、小名康之、長島弘 訳 『中世インドの歴史』山川出版社、2001年。 
  • 小谷汪之 『世界歴史大系 南アジア史2 ―中世・近世―』山川出版社、2007年。 
  • P・N・チョプラ 著、三浦愛明 訳 『インド史』法蔵館、1994年。 

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ラタン・シング (メーワール王)」の関連用語

ラタン・シング (メーワール王)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ラタン・シング (メーワール王)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのラタン・シング (メーワール王) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS