アマル・シング (メーワール王)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > アマル・シング (メーワール王)の意味・解説 

アマル・シング (メーワール王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/13 08:08 UTC 版)

アマル・シング
Amar Singh
メーワール王
アマル・シング
在位 1597年 - 1620年
戴冠 1597年1月19日
別号 マハーラーナー
出生 1559年3月16日
チットールガル
死去 1620年1月26日
ウダイプル
子女 カラン・シング2世
王朝 シソーディヤー朝
父親 プラタープ・シング
宗教 ヒンドゥー教
テンプレートを表示

アマル・シング(Amar Singh, 1559年3月16日 - 1620年1月26日)は、北インドラージャスターン地方メーワール王国の君主(在位:1597年 - 1620年)。

生涯

1559年3月16日メーワール王国の君主プラタープ・シングの息子として、チットールガルで誕生した[1][2]

1597年1月19日、父王プラタープ・シングが死亡したことにより、アマル・シングが王位を継承した[3][4]。アマル・シングは父王プラタープ・シングの意志を引き継ぎ、その死後もムガル帝国のとの戦いを続けた。

そうしたなか、1605年に帝国の皇帝アクバルが死亡し、息子のジャハーンギールが手打言いを継承した。ジャハーンギールは服属しないメーワール王国に対して、即位後すぐに次男パルヴィーズ率いる軍勢を派遣した[5]。だが、この遠征は失敗に終わったため、1608年1609年の2度にわたる遠征軍を派遣した。これらの遠征は皇帝の3男フッラムによって行われ、2度目の遠征は不首尾であったが、3度目の遠征は成功した[6]

アマル・シングはは遠征軍による王国中の略奪に疲弊し、1614年2月になってようやく帝国に服属した[7][8]。ジャハーンギールは父アクバルが占領したチットールガル城が破壊されたままであることを条件に返却し、メーワール王国の半独立を認めた[9][10]。ここに第一次ムガル・ラージプート戦争は終結した。

1620年1月26日、アマル・シングはウダイプルで死亡した[11][12]。死後、息子のカラン・シング2世が王位を継承した。

脚注

  1. ^ Udaipur (Princely State)
  2. ^ UDAIPUR (Mewar) (Princely State)
  3. ^ Udaipur (Princely State)
  4. ^ UDAIPUR (Mewar) (Princely State)
  5. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.167
  6. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.167
  7. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.154
  8. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.168
  9. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.168
  10. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.199
  11. ^ Udaipur (Princely State)
  12. ^ UDAIPUR (Mewar) (Princely State)

参考文献

  • アンドレ・クロー; 杉村裕史訳 『ムガル帝国の興亡』 法政大学出版局、2001年 
  • 小谷汪之 『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』 山川出版社、2007年 

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アマル・シング (メーワール王)」の関連用語

アマル・シング (メーワール王)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アマル・シング (メーワール王)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアマル・シング (メーワール王) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS