チカマウガ戦争の終結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 09:47 UTC 版)
「チカマウガ戦争」の記事における「チカマウガ戦争の終結」の解説
1794年夏、ホワイトマンキラーとザ・ボウルに率いられたチカマウガ・チェロキー族の1隊がウィリアム・スコット以下の部隊を捕まえ、白人の通行人を殺し、物資を略取し、奴隷を捕虜にした。この後、ザ・ボウルとその戦士達は西へ移動し、ミシシッピ川を越えてセントフランシス川まで行って定住した。これはチェロキー族の大きな集団が初めてミシシッピ川を越えて定住した例となった。 その年の秋、メロ地区(カンバーランド)のロバートソン将軍に宛ててトマス・ブラウンが伝言を送り、マスコギー族とチェロキー族の1隊がすべての川沿いの襲撃を始めようとしていると伝えた。これに対応して、ロバートソンはジェイムズ・オーレ少佐に命じ、合衆国正規兵とメロ民兵およびケンタッキー志願兵の部隊をファイブ・ローワー・タウンズに送った。この部隊は警告無しでニカジャック集落を襲い、平和的な酋長ザ・ブレスを含む多くの住人を殺害した。その住居に火を付けた後に川を遡ってランニング・ウォーター集落も燃やしたが、住民はとっくに逃げおおせていた。2つの町の住人の多くはウィルスタウンでスティックボールをやっていたために、被害は比較的少なかった。 2つの集落の破壊の他に4月にはボブ・ベンジが死んでおり、また北部では、8月にフォールン・ティンバーズの戦いで"マッド・アンソニー"ウェイン将軍にインディアン同盟軍が敗れていた。さらにスペインがヨーロッパでのナポレオンに対応するために、チカマウガを支援できなくなっていた。ワッツは戦いを終わらせるしかないと確信した。1ヵ月後のテリコ・ブロックハウス条約で、戦争は終結したが、条約では新たな土地の割譲がなかったことは注目すべきことであった。チカマウガとローワーのチェロキー族はホルストン条約を認めさせられ、19世紀まで休戦が続くことになった。ただし、ダブルヘッドがセビアの基地に最後の攻撃を仕掛け、14名を殺した。この時、他の者はフィラデルフィアで条約に調印していた。
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