チカマウガの戦いと戦死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 14:06 UTC 版)
「ベンジャミン・ハーディン・ヘルム」の記事における「チカマウガの戦いと戦死」の解説
1863年秋、ケンタッキー第1旅団は、ブラクストン・ブラッグ将軍がテネシー州チャタヌーガで北軍ウィリアム・ローズクランズ少将の攻撃に反撃する作戦の一翼を担った。9月20日午前9時半、ブレッキンリッジ師団とパトリック・クリバーン将軍の師団が前進を命じられた。ブレッキンリッジ師団のヘルムの旅団や他の旅団は北軍の左翼に向かった。クリバーン師団は北軍前線の中央近くを叩くつもりだったが、北軍からの激しい砲火のために進行が遅れ、左側面が無防備になった。北軍を圧倒しようという試みを何度やっても成果が出なかったが、ヘルムの部隊の幾らかは敵前線から39ヤード (36 m) まで辿り着くことができた。前進命令が出てから1時間足らずの間に、孤児旅団の兵士の3分の1が既に失われていた。残った戦力で、防御が施された北軍前線に衝突した。北軍ケンタッキー第15歩兵連隊の狙撃手が、ヘルムの胸を銃撃した。ヘルムは激しく出血しながら馬上にあったが、数秒後につんのめって地面に落ちた。ヘルムは戦場から担ぎ出され、軍医がその傷は致命傷だと判断した。それでもヘルムは数時間生きていた。息絶え絶えにありながら、戦闘でどちらが勝ったかを尋ねた。その日は南軍が勝ったことを確認すると、「勝利!、勝利!、勝利!」と呟いた。1863年9月21日、ヘルムはその傷がもとで死んだ。 ヘルムの死後、エイブラハム・リンカーンとその妻はホワイトハウスで個人的な喪に服した。メアリー・リンカーンの姪は「死んだ敵兵のために流す1粒の涙が、夫と彼女自身の双方に嘲りの奔流と苦々しい罵りをもたらすことを彼女は知っていた」と回想した。しかし未亡人となったエミリー・トッド・ヘルムは1863年12月にホワイトハウスまで安全に行くことを認められた。 チカマウガの戦いの公式報告書で、ダニエル・ハーベイ・ヒル将軍は、ベンジャミン・ヘルムの「勇敢で愛される性格が誰もに慕われた」と記していた。ブレッキンリッジはエミリー・トッド・ヘルムに宛てた手紙で、「貴女の夫は完全な兵士のように孤児旅団の兵士を指揮した。彼は彼らを愛し、彼らも彼を愛した。彼は彼らの頭の中で愛国者かつ英雄として死んだ」と記した。
※この「チカマウガの戦いと戦死」の解説は、「ベンジャミン・ハーディン・ヘルム」の解説の一部です。
「チカマウガの戦いと戦死」を含む「ベンジャミン・ハーディン・ヘルム」の記事については、「ベンジャミン・ハーディン・ヘルム」の概要を参照ください。
- チカマウガの戦いと戦死のページへのリンク