チカマウガ地域への移住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 09:47 UTC 版)
「チカマウガ戦争」の記事における「チカマウガ地域への移住」の解説
ドラッギング・カヌーとオステナコを含む指導者達は、周辺の心を同じくするチェロキー族を寄せ集め、今日のテネシー州チャタヌーガに移住した。このためにクリスチャンの部隊はグレートアイランドやシティコ、テリコなどの集落が打ち棄てられ年老いた酋長達だけが残っているのを見つけた。クリスチャンは3つの放棄された集落を燃やすだけでその作戦を終えた。 アレクサンダー・キャメロンの忠告に従って、チェロキー族はグレート・インディアン・ウォーパスがチカマウガ川を横切る場所にチカマウガの集落を造った。ドラッギング・カヌーもそこに住んだので、その一派のことを白人は「チカマウガ」と呼んだ。 イギリスの宣教師ジョン・マクドナルドがチカマウガとは川を隔てた所に以前から住み交易所を開いており、西フロリダの首都ペンサコーラにいるジョン・スチュアートの弟ヘンリー・スチュアートと連絡を保っていた。副監察官でありドラッギング・カヌーの血をわけた兄弟であるアレクサンダー・キャメロンがマクドナルドを伴ってチカマウガを訪れたが、後にイギリスの利益を代表するためにアッパー・マスコギーの領地に送られた。 チカマウガの集落に加えて、反体制派のチェロキー族がチカマウガ川の上下流に3つの集落を築いた。他にも多くの集落ができたが、そのチェロキー族も他のチェロキー族も自分達のことをチェロキー族以外の何者でもないと考えていたことは重要である。 チカマウガ・チェロキー族が使った土地は、かってマスコギー族が集落を構えていた場所であり、チェロキー族の伝説に従えば、1755年のタリワの戦い後にチェロキーの持ち物となっていた。しかし、マスコギー族は実際にはチェロキー族との間に緩衝地帯をおくため、もっと早くにその土地を離れていた。カロライナ植民地が1600年代遅くに交易を始めたとき、チェロキー族の最西端の集落は、双子の集落グレート・テリコとチャツーガであった。チェロキー族がクーサワッティーと呼ぶ集落は1700年代初期にチェロキー族が所有していたが、その後放棄された。この土地は1758年にマスコギー族がビッグ・モーターという指導者のもとで再度領有し、フレンチ・インディアン戦争の間、グレート・テリコを中心とする親フランスチェロキー族を支援したことがもとで、マスコギー族、チェロキー族、ショーニー族、チカソー族およびカトーバ族の同盟の踏み台となった。ビッグ・モーターは戦争が公式に終わった翌年にマスコギー族の大酋長になった。 1777年、チェロキー族の元の地に残っていたチェロキー族はジョージアやサウスカロライナとデューイット・コーナーの条約を、またバージニアやノースカロライナとヘンリー砦の条約を結び、戦いの鉾を納めることにより、見返りに攻撃から守って貰うことになった。しかし、不法な入植者からの攻撃を止めることもできず、その土地の浸食も止められなかった。実際には戦争を止めてサウスカロライナの土地を諦めることも要求された。 多くのチェロキー族はその土地に入ってくる白人開拓者に不満を抱き、チカマウガに同調してドラッギング・カヌーの追従者に加わるようになった。これに加えてチカマウガの近くのチェロキー族も幾つかの行動に加わり、デューイット・コーナーの条約でサウスカロライナの家を追われた者も加わった。チカマウガ川上流などに住んでいたユチ族も支援してくるようになった。 チカマウガ・チェロキー族の主な攻撃目標は、ワトーガ川などの入植者と、テネシー川沿いに旅する集団であった。しかし、バージニア、カロライナおよびジョージアを攻撃目標から外したという訳ではなかった。さらにバージニア西部、ケンタッキーおよびオハイオ領土にも攻撃を仕掛けた。
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