チェットトン朝
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チエンマイの王となったカーウィラは、チエンマイが廃墟と化していたため、もっぱらラムパーンに住み続け、減りに減った人口の回復に没頭した。一方、未だビルマの影響下にあったチエンセーンやケントゥンを攻撃し逃げてきた人々を保護する、あるいは強制移住させる方法で、1813年までに、ラーンナー北部の諸都市はほとんど廃墟とした。このような方法で人口を増やす方法は、カーウィラだけでなく、後に続く王達も行った。 1796年、カーウィラはチエンマイを再建、マンラーイ朝における古い儀式を復活しレガリアを定め、仏教を保護し、寺院を建て自らの威信を高めた。またカーウィラは、1805年にラムプーンも再建し、チエンマイ、ラムパーン、ラムプーンの国主の座を自分の兄弟達で独占した。これによりカーウィラのチェットトン王家はラーンナーにおけるもっとも有力な家・王朝を築いた。 その後、チェットトン王家によるチエンマイの支配は、9代続き、8代目のインタウィチャヤーノン(1901 - 1909年)の代にモントン・パヤップが成立、チェットトン家による専制支配は終了し、実質チャクリー王朝の支配下に入り、ケーオナワラット(1911 - 1939年)を最後に、ラーンナー王朝は終わりを告げた。
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チェットトン朝
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『チエンマイ年代記』、『ヨーノック年代記』、公文書などによる。年代に空きがあるのは中央政府(チャクリー王朝)の承認まで時間がかかったため。 チエンマイ王 カーウィラ王(1782 - 1816年) タンマランカー公(1816 - 1822年) セーティーカムファン公(1823 - 1825年) プッタウォン公(1825 - 1846年) マホータラプラテート王(1847 - 1854年) カーウィローロットスリヤウォン王(1856 - 1870年) インタウィチャヤーノン王(1873 - 1896年) インタワローロットスリヤウォン公(1901 - 1909年) ケーオナワラット公(1909 - 1939年) なお、ケーオナワラットの子(英語版)が死んだためチェットトン家は断絶したが、ナ・チエンマイ家はチエンマイの名家として男系で現存する。
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