ソマリア分割とその後とは? わかりやすく解説

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ソマリア分割とその後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/16 16:32 UTC 版)

大ソマリア主義」の記事における「ソマリア分割とその後」の解説

19世紀後半アフリカ分割において、ソマリ人居住地域イタリア領ソマリランド現在のソマリア大半)、イギリス領ソマリランド現在のソマリランドにほぼ相当)・フランス領アファル・イッサ現在のジブチ)・エチオピアオガデン現在のソマリ州)・英領ケニア植民地(うち北東部)の五つ分割されていた。 その後1950年国際連合は旧イタリア領ソマリランドイタリア信託統治イタリア信託統治領ソマリア)し、10年後の1960年独立させることを明確に定めた10年後の独立確定した伊領ソマリアでは民族運動高揚し、同民族の住む北の英領ソマリランドでも独立運動おこった。両地域独立運動合同し1960年ソマリア独立時には地域合併してソマリア共和国成立した。この過程において、両地域のみならずすべてのソマリ人ソマリアの国の元に集結することが構想され、大ソマリア主義誕生したソマリア独立後アデン・アブドラ・ウスマン初代大統領ソマリアをまとめるためナショナリズム煽り大ソマリア主義掲げ上記の三地域併合しようと図ったため、ケニアエチオピアとしばしば衝突した1967年大統領選挙ウスマン敗れアブディラシッド・アリー・シェルマルケ就任すると、大ソマリア主義抑えて近隣各国との関係改善努めたが、1969年シェルマルケが暗殺されクーデターシアド・バーレ大統領の座に就くと、再び大ソマリア主義復活国内改革失敗し求心力弱まると、よりいっそう大ソマリア主義唱えるようになっていった。 1977年エチオピアソマリ人大ソマリア主義によって分離運動激化させ、1978年ソマリア軍はエチオピア国内ソマリ人地域併合唱えエチオピア南東部オガデン地方侵攻する。オガデン戦争である。この戦争長期化し、ソマリアにはエチオピアソマリ人難民流れ込みソマリア経済疲弊し内戦勃発バーレ政権弱体化により大ソマリア主義沈静化し、1988年停戦成立した

※この「ソマリア分割とその後」の解説は、「大ソマリア主義」の解説の一部です。
「ソマリア分割とその後」を含む「大ソマリア主義」の記事については、「大ソマリア主義」の概要を参照ください。

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