セザンヌ、マティス、ピカソなど
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 12:04 UTC 版)
「ガートルード・スタイン」の記事における「セザンヌ、マティス、ピカソなど」の解説
多くの芸術家がスタインのサロンに集まる一方で、これら芸術家の作品の多くはスタインの居室の壁にある絵画の中にはなかった。ルノワール、セザンヌ、マティスおよびピカソの作品はレオとガートルード・スタイン兄妹の収集品では支配的なものであり、サラ・スタインの収集品はマティスに集中していた。スタイン兄妹と同世代であるマティスとピカソは社交サークルのメンバーとなり、フルリュース通り27番の土曜夜のサロンでも初期のメンバーとなった。スタインは土曜夜のサロンの開始をマティスのお陰と言った。 段々と機会も増えて人々がマティスとそしてセザンヌの絵を見るために立ち寄るようになった。「マティスは人々を連れてきて、みんなが誰かを連れてくる、彼らがいつもやってくるので一つの悩みにもなった。そんな訳で、土曜夜のサロンが始まった。」 土曜夜にしばしば訪れたピカソのサークルには、フェルナンド・オリバー(ピカソの愛人)、ブラック、ドラン、マックス・ジャコブ(詩人)、アポリネール、マリー・ローランサン(アポリネールの愛人で、画家)、アンリ・ルソー(画家)がいた。 スタイン兄妹の共同収集が最高潮になっていた1906年遅くから1907年初めに掛けて、兄妹は支援をしている画家達を集めて昼食会を開いた。昼食会の具体的な日付や客のリストなどの記録は完全ではないが、当時スタイン兄妹の居室を度々訪れた芸術家、あるいはスタイン兄妹が購入した絵の画家は客のリストに入っていたと考えられている。これにはピカソ、マティス、フェリックス・ヴァロットン、モーリス・ドニ、マンガン、アルフレッド・モーラー、ブラック、マホンリ・ヤング(彫刻家)、H・ライマン・セイブンおよびボナールがいた。スタインの伝記作者で複数の者が、スタインの取ったトリックに焦点を当てている。それはスタインが画家達に自分の作品に面して座らせるようにしたことである。マティスが観察したところでは、この試みの成功で昼食会の客を活気づけ、スタインのやり方を受け入れたという。 この昼食会のすぐ後で、スタインはアリス・B・トクラスと出会った。同じ頃、ピカソの画風がキュビスムに変化し、スタインの作風も変わった。その変化には兄のレオが口に出して不同意を示した。「レオはキュビスムを永遠の価値が有るものとは認めなかった。ガートルード・スタインの文体に関する非難もさらに厳しいものになり、彼女は文学の目的をピカソの絵画の目的に同一視するようになった。
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