セオドア・ルーズベルトとの関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 04:33 UTC 版)
「ジェイコブ・リース」の記事における「セオドア・ルーズベルトとの関わり」の解説
リースの活動はセオドア・ルーズベルトに大きな影響を与えた。彼は『向こう半分の人々の暮らし』を読んですぐにリースのもとへ出向いたが、リースは取材で留守であった。そこで名刺に「君の本を読んだ。力になりたい」と書置きを残した。この時のことをリースは以下のように書き残している。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}彼が私に会うためにイブニング・サン社のオフィスにやって来たのは、私が『他の半分の人たちの生活』を書いて、そうたたないうちであった。その時私は外出中であったので、彼は、私の本を読んだこと、何かお役に立てばと思ってやって来たとだけ書いて帰っていった。それだけで彼がどんな人かよく分った。私ははじめて彼に会ったその日から彼が好きになった。……誰も彼がしたようには私を助けてくれなかった。二年の間、われわれはこのマルベリー街で兄弟であった。 —ジェイコブ・リース 1894年、ボス政治を行い、タマニー・ホールと結びついていた民主党がニューヨーク市長選挙に敗れ、共和党系のウィリアム・ラファイエット・ストロング(William Lafayette Strong)が市長になると、ルーズベルトもニューヨーク市警察の公安委員長(New York City Police Commissioner)に任命された。これに際して、彼はリースに夜間の犯罪捜査を見せてもらうよう頼んだ。最初の巡回の間、二人はほとんどの巡査が持ち場にいないことに気づいた。リースはこのことを次の日の新聞に書き、またルーズベルトも残りの任期中には、より注意を払うようになった。 またルーズベルトの力でスラムの改善は急速に進展した。特にリースが犯罪再生産の場として廃止を強く訴えてきた警察の浮浪者収容施設は廃止され、またマルベリー・ストリートのテネメントも撤去されて跡地には公園ができた。さらに劣悪なアパートメントは取り壊されて、新しく建設されるものについては彩光と換気が義務付けられたほか、運動場付きの学校や職業訓練校もできた。この時のことをリースは、上の引用にもあるように、「マルベリー・ストリートの黄金時代」と呼び、同時にルーズベルトを「兄弟」とさえ呼んだのであった。 一方、後述するようにリースはフランクリン的な勤労倫理観に立ち、「浮浪者の問題は怠惰の問題である」と考えていたために浮浪者収容施設の廃絶に努めていたという側面があり、この結果これを更生の機会としたものもいたものの、ニューヨークを楽園と思っていた多くの浮浪者は、シカゴに移ることになった。
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