スパ24時間、マカオ・ギアレース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/27 23:30 UTC 版)
「1992年のドイツツーリングカー選手権」の記事における「スパ24時間、マカオ・ギアレース」の解説
1991年はDTM規定車の参戦が認められなかったスパ・フランコルシャン24時間レースだが、1992年は再び参戦が認められ、BMWのシュニッツァー、ビガッツィ、イタリアのシビエムの3チームから5台のM3をエントリーさせた。レースは前年優勝した日産のスカイラインGT-Rとの戦いとなった。スカイラインGT-Rは1991年より90kg重い1350kgの最低重量が課せられたが、最低重量980kgのM3よりもパワー、スピードとも優り、BMW勢は燃費の良さと信頼性を武器に戦ったがレースではスカイラインGT-Rに対して徐々に差を広げられていった。だがスカイラインGT-RはECUのトラブルで6位にまで後退した後、給油時に火災を起こして撤退し優勝争いはシュニッツァー、ビガッツィの2チームによって争われることになった。 レースはシュニッツァーのエリック・ヴァン・デ・ポール組と、2位のビガッツィのスティーブ・ソーパー組が同一周回で最終盤を迎えた。シュニッツァーは最終スティントでピットストップをせずヴァン・デ・ポールに最後まで走らせることにした。一方ビガッツィはピットストップを行い、タイヤ交換、燃料補給をし、ドライバーもソーパーに交替させて万全の状態でマシンを送り出した。ソーパーは激しく追撃し、ヴァン・デ・ポールをラストラップに抜き去り0秒48差で逆転優勝した。 メルセデスとBMWは1991年に続いてマカオグランプリのギア・レースに出場した。メルセデス/AMGは クラウス・ルドヴィック、 ベルント・シュナイダー、エレン・ロールと ケケ・ロズベルグの代役として地元ドライバー、二・アモリムの4台。BMW/シュニッツァーはロベルト・ラヴァーリア、 エマニュエル・ピロ、ヨアヒム・ヴィンケルホックの3台の他に地元ドライバーにもマシンをレンタルした。 前年、DTM勢に惨敗を喫した長谷見昌弘のスカイラインGT-Rは1991年より50kg重量を軽減され予選タイムを前年より2秒詰めることに成功したが、DTM勢はメルセデスのシュナイダーが,前年ピロが出したポールポジションタイムを5秒近くも縮めてポールポジションを獲得しDTM勢の優位が揺らぐことはなかった。 レースはメルセデス勢がアクシデントで崩れ、BMWがピロ、ヴィンケルホック、ラヴァーリアの順で1-2-3フィニッシュを決め、ピロは2年連続でギア・レースを制した。 ニュルブルクリンク24時間レースではDTMクラスから出場したBMWのジョニー・チェコット組が優勝した。
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