スコットランド軍に勝利、公爵に昇叙
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「トマス・ハワード (第2代ノーフォーク公)」の記事における「スコットランド軍に勝利、公爵に昇叙」の解説
1509年にヘンリー7世が崩御、次男でアーサーの弟ヘンリー8世が即位すると、枢密顧問官としてヘンリー8世の治世を支えた。しかしヘンリー8世が兄の未亡人キャサリンを娶ったことに反対しキャサリンを敵視していた。 1513年にヘンリー8世がカンブレー同盟戦争でフランス外征中のスキをついて、4万のスコットランド軍がイングランドに侵攻してきた際にサリー伯は息子トマスとともに2万6000の兵を率いて出陣し、フロドゥンの戦い(英語版)でスコットランド王ジェームズ4世を敗死させた。この戦功で紋章の加増が、翌1514年に父のノーフォーク公位を復活させることが認められ、第2代ノーフォーク公となった。一方でヘンリー8世はハワード家への牽制としてチャールズ・ブランドンもサフォーク公に叙爵、彼をハワード家の地盤であるイースト・アングリアへ派遣している。 その後もヘンリー8世の信任は厚く、1517年5月1日にロンドンで暴動(魔のメイデイ事件)が発生、騒ぎを抑えきれなかったロンドン保安長官代理トマス・モアに代わり軍を率いて鎮圧、捕らえた暴徒たちの裁判を担当した。当初は王の意向で反逆罪を適用して死刑にする方針で13人を処刑したが、キャサリンが王へ懇願した残りの暴徒たちへの恩赦が認められ処刑は中止になった。1520年の金襴の陣では、ヘンリー8世が王妃を連れて国を離れたため、国務を任された。 王の寵臣として台頭したトマス・ウルジーへの対抗策として、ハワード家安泰のため12人の子供達を政略結婚に活用する一方、姻族であっても不利と判断すれば容赦なく見捨てた。長男トマスには初めエドワード4世の娘アン王女(英語版)を娶わせ、彼女の死後はバッキンガム公エドワード・スタッフォードの娘エリザベス(英語版)を後妻に迎えた。しかし1521年にバッキンガム公が反逆罪に問われた裁判で裁判長を務めたノーフォーク公は彼に有罪を宣告、処刑・没収されたバッキンガム公の遺領の一部を拝領した。 1524年5月21日、サフォークのフラムリンガム城(英語版)にて死去。爵位はトマスが継いだ。長女エリザベスは外交官トマス・ブーリンに嫁ぎ、アン・ブーリンを産んだ。
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