ジョンとの戦いとは? わかりやすく解説

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ジョンとの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 11:04 UTC 版)

フィリップ2世 (フランス王)」の記事における「ジョンとの戦い」の解説

1200年ジョンが、既に婚約者のいたイザベラ・オブ・アングレーム結婚した時、婚約者だったユーグ・ド・リュジニャンはこれをフィリップ2世訴えたフィリップ2世ジョン法廷召喚し、これを拒否されるジョンの全フランス領土の剥奪宣言しノルマンディー以外のこれらの領土ブルターニュアルテュール与えアルテュール支援してジョン交戦した1203年ジョンアルテュール捕らえ殺害すると、フランス諸侯ジョン見限りブルターニュ始めとしてノルマンディーアンジューメーヌトゥレーヌポワトゥーはほとんど抵抗せずフィリップ2世降伏したジョンの下に残ったのは、わずかにアキテーヌ中心地であるガスコーニュのみで、フィリップ2世懸案だったプランタジネット家フランス領土の大部分回収成功したその後ジョン失地回復目指しアンジューポワトゥー侵攻したが、これを撃退しロワール川以北正式にフランス領とする条約結んだ。 さらに1213年には、破門されジョン対しローマ教皇インノケンティウス3世支援を受け、ジョン不満なイングランド諸侯ウェールズアイルランド呼応してイングランド侵攻計画した。しかし、これを恐れたジョンイングランドローマ教皇寄進し、教皇封建臣下となったため、教皇イングランド侵攻支持取り消し計画中止された。その後イングランド侵攻協力しなかったフランドル伯攻めたが、イングランド援軍により撃退された。 翌1214年になるとジョンは、甥の神聖ローマ皇帝オットー4世フランドル伯フェラン提携しフランス南北から挟撃する計画立てたジョンフランス南部進撃する同時にドイツフランドル軍がフランドルからフランス侵入するというものであった。これに対しフィリップ2世は、王太子ルイ南部派遣してジョン抑え、自らはフランドルから進入する皇帝連合軍迎え撃ちブーヴィーヌの戦い勝利を収めた。この勝利により神聖ローマ帝国イングランドに対して優位に立ち、プランタジネット家旧領確保すると共にフランスの有力諸侯フランドル伯ブローニュ伯を捕虜とし、王権をいっそう確実にした。 1215年ジョンに不満を持つイングランド諸侯要請により、王太子ルイイングランド侵攻認めるが、1216年ジョン亡くなるとイングランド諸侯ジョン息子ヘンリー3世支持したため、ルイ即位果たせなかった。

※この「ジョンとの戦い」の解説は、「フィリップ2世 (フランス王)」の解説の一部です。
「ジョンとの戦い」を含む「フィリップ2世 (フランス王)」の記事については、「フィリップ2世 (フランス王)」の概要を参照ください。

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