シハーブ家の統治 1697-1842とは? わかりやすく解説

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シハーブ家の統治 1697-1842

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/10 04:16 UTC 版)

近代レバノンの歴史」の記事における「シハーブ家の統治 1697-1842」の解説

マーン家の統治の後を襲ったのが、シハーブ家である。その中でも、最も著名なのが、バシール・シハーブ2世1788年 - 1840年)である。 シハーブ家はもともとはヒジャーズ起源を持つスンナ派ムスリムであったとされるが、バシールの代までには全て改宗しマロン教徒となっていた。しかし、バシール自身個人の信仰を表に出すことはなかったとされる1799年ナポレオンアッカ侵攻すると(エジプト・シリア戦役参照)、バシールナポレオンアッカ統治していたジャッザール・パシャ双方から協力求められたが、どちらにも与せず中立保ったアッカ攻略失敗したナポレオンは、エジプト移動することとなったバシールその後支配領域拡大目指し周辺有力者との抗争続けることになる。時には抗争敗れてエジプトなどに逃れることもあったが、徐々に力を蓄え、また徴税吏の地位めぐって、シハーブ家の競争相手投獄したり、盲目にしたり、殺害することによって、自らの地位固めつつ、1830年には、ディンニーエとアッカを除くレバノン全域バシール支配することとなる。オーストリア帝国メッテルニヒは、山岳レバノンシリア別個の国家として認識していたが、この時期バシール統治していた領域が、現代レバノン原型といえる。 だが、シハーブ家の統治は、エジプトからの潮流受けて、やがて終焉迎えることになる。同時期のエジプトで州総督ムハンマド・アリーによる近代化改革オスマン帝国への挑戦始まったからである。近代化されエジプトは、第一次エジプト・トルコ戦争での勝利結果シリア支配権獲得するシリアムハンマド・アリー息子であるイブラーヒーム・パシャ統治することとなり、バシールエジプトの「同盟者」として引き続きレバノン支配することになったバシールはかつてエジプト逃れていた際にムハンマド・アリー親交結んでいたこともあって、イブラーヒーム・パシャへの協力惜しまなかった。例えば、イブラーヒーム・パシャシリアにおいて養蚕奨励し作付面積拡大する政策を採ったが、同盟者であったバシール・シハーブ2世支配地域でも同様の政策が採られた。このようなエジプトとの協調体制は、後に山岳レバノンにおいて絹産業発展する素地作るなど、一定の成果収めた。 しかし、エジプト同盟者という立場レバノン首長国終わりもたらしたエジプトイギリスとの戦争負けたためである。バシールは、イギリスの軍艦で、マルタへの亡命余儀なくされ、レバノン首長国滅亡した

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