シハーブ家の統治 1697-1842
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「近代レバノンの歴史」の記事における「シハーブ家の統治 1697-1842」の解説
マーン家の統治の後を襲ったのが、シハーブ家である。その中でも、最も著名なのが、バシール・シハーブ2世(1788年 - 1840年)である。 シハーブ家はもともとはヒジャーズに起源を持つスンナ派のムスリムであったとされるが、バシールの代までには全て改宗してマロン教徒となっていた。しかし、バシール自身は個人の信仰を表に出すことはなかったとされる。1799年、ナポレオンがアッカに侵攻すると(エジプト・シリア戦役を参照)、バシールはナポレオンとアッカを統治していたジャッザール・パシャの双方から協力を求められたが、どちらにも与せず中立を保った。アッカの攻略に失敗したナポレオンは、エジプトへ移動することとなった。 バシールはその後、支配領域の拡大を目指して周辺の有力者との抗争を続けることになる。時には抗争に敗れてエジプトなどに逃れることもあったが、徐々に力を蓄え、また徴税吏の地位をめぐって、シハーブ家の競争相手を投獄したり、盲目にしたり、殺害することによって、自らの地位を固めつつ、1830年には、ディンニーエとアッカを除くレバノン全域をバシールは支配することとなる。オーストリア帝国のメッテルニヒは、山岳レバノンをシリアの別個の国家として認識していたが、この時期にバシールが統治していた領域が、現代のレバノンの原型といえる。 だが、シハーブ家の統治は、エジプトからの潮流を受けて、やがて終焉を迎えることになる。同時期のエジプトで州総督のムハンマド・アリーによる近代化改革とオスマン帝国への挑戦が始まったからである。近代化されたエジプトは、第一次エジプト・トルコ戦争での勝利の結果、シリアの支配権を獲得する。シリアはムハンマド・アリーの息子であるイブラーヒーム・パシャが統治することとなり、バシールはエジプトの「同盟者」として引き続きレバノンを支配することになった。 バシールはかつてエジプトに逃れていた際にムハンマド・アリーと親交を結んでいたこともあって、イブラーヒーム・パシャへの協力を惜しまなかった。例えば、イブラーヒーム・パシャはシリアにおいて養蚕を奨励し、桑の作付面積を拡大する政策を採ったが、同盟者であったバシール・シハーブ2世の支配地域でも同様の政策が採られた。このようなエジプトとの協調体制は、後に山岳レバノンにおいて絹産業が発展する素地を作るなど、一定の成果を収めた。 しかし、エジプトの同盟者という立場はレバノン首長国に終わりをもたらした。エジプトがイギリスとの戦争に負けたためである。バシールは、イギリスの軍艦で、マルタへの亡命を余儀なくされ、レバノン首長国は滅亡した。
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